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■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2009

管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の探訪記録です。
2009年4月より公開。

城跡・史跡めぐり探訪記 2013

城跡・史跡めぐり探訪記 2012

城跡・史跡めぐり探訪記 2011


城跡・史跡めぐり探訪記 2010

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12月30日(水)曇/東条城(幡豆郡吉良町)
 今年最後の訪城だ。豊橋BPから蒲郡を抜けて吉良町へ向かった。目標は東条城である。
 近くまで行くと物見櫓が丘の上に建っており、迷うことはない。
 東条城は吉良氏の根拠地のひとつである。承久の乱で足利義氏が三河守護となり、長男長氏が西条城(西尾城)を築き、三男義継がここ東条城を築いた。その後、長い間両者は抗争を繰り返して戦国時代を迎える。そして終には徳川家康によって攻略され、松平氏のものとなった。城址の近くには徳川勢との戦いの跡である藤波畷古戦場の碑も建てられている。
 城址の遺構の残存程度はそれほどでもないが、城址公園としてそれなりに整備されている。土塁や虎口、そして楼門や物見櫓などが復元というより、再現されている。
 二の丸の八幡社では近在の人々が新年を迎えるために境内の清掃をしていたようで、にぎやかな笑い声が印象的であった。

↑東条城。三の丸から見た本丸大手口。
12月6日(日)晴/赤羽根城、和地城亀山城保美城(田原市)
 午前中、渥美半島の古城4ヶ所を訪ねた。
 いつものように42号線を疾走、まずは赤羽根城跡へ向かった。

 赤羽根城は日留輪城とも呼ばれる。徳川家康の家臣小笠原新九郎安元が永禄年間に渥美半島中央部を与えられ、築城に及んだとされる城である。残念ながら、現況は土地改良が進み、全面耕作地と化している。もちろん遺構は消滅してその片鱗すらない。わずかに耕地に高低差があり、かつて段丘の地形であったことをうかがわせるだけである。



 次に和地城へ向かった。ここは再訪である。ここもまた遺構消滅の城跡であるが、城址とされる西側に堀に利用された鉄砲川が流れており、実見したくて寄ってみた。当然であるがやはり城跡を思わせるような何物も感じられなかった。





 気を取り直してさらに半島先端部に車を向けた。亀山町に残る亀山城である。城館資料には亀山村古城となっている城跡である。かつてはここに豊嶋池が存在しており、城はこの池に突き出した岬状の先端部にあったようである。現在は干拓され、周辺には耕作地が広がっている。城址は豊島神社の境内地となっているようだ。ここも城館を思わせる遺構は何もない。資料には城主として烏丸大納言の名が記されており、公家烏丸氏領に関連する城館跡かと思われる。



 亀山城から10分ほどのところに保美城跡がある。資料には保美上城として記されている。城主は烏丸大納言資任である。応仁の乱の戦火を避けて京を離れ、自領となっていた保美の里に城館を構えたのである。城館といっても戦乱に耐えられるような本格的なものではなく、屋敷城といったものだったであろう。
 この烏丸資任没後、保美城跡には霊山寺が建てられ、現在に至っているという。資任の墓は寺の裏に残っており、立派な宝筐院塔が建っている。また、本堂前には大納言(資任)お手植えとされる橘(2代目)の木が520年後の今も実を付けている。考えてみると、資任の病死したのが文明14年(1482)の12月15日とされているから、死の直前に黄色く実の生った橘の木(柑橘系)を病床から眺めていたに違いない。

↑赤羽根城跡

↑和地城の西堀となった鉄砲川

↑亀山城(亀山村古城)遠望

↑保美城跡(霊山寺)の橘
11月29日(日)曇/龍眼山城(牧之原市)
 昨夜、御前崎近くで一泊忘年会。
 せっかくここまで来たのだから、ということで牧之原市の榛原公園に立ち寄った。小高い山上が公園となっているが、戦国期の城跡でもある。龍眼山城という。
 ここは駿河湾を望む台地の突端部にあたる。南北二つの曲輪で構成された城で、南曲輪が公園となって物見櫓風の展望台が建てられている。北曲輪は茶畑になっており、南曲輪との境には土塁の遺構が残っていた。城の由来は推定の域を出ないが、武田氏の遠江進出にともなって築かれたものと見られている。つまり、高天神城を維持するための補給線の確保を目的とした繋ぎの城といえる。

↑龍眼山城の土塁遺構
11月7日(土)晴/石橋山古戦場小田原城今井陣場石垣山城岩原城(神奈川県)
 4時発。今日は久しぶりに東へとハンドルを切った。小田原城とその周辺に目標を定めての出陣だ。
 7時、石橋山古戦場に到着。云わずと知れた頼朝挙兵の地だ。結果は惨敗に終わり、その後房総半島に逃れて再起を果たすことになる。周辺にはここで討死した佐奈田与一の塚や佐奈田霊社、討死の地、文三堂といった史跡が残されている。目前には相模湾が迫っている。すでに朝陽は水平線から離れて眩しく輝いている。快晴だ。気分が高揚してくる。
 小田原城の駐車場に入ったのは8時だ。さっそく城内の散策開始だ。小田原城のように観光客でにぎわいそうな城の場合、その波が押し寄せる前に自由に歩き回るのが私の訪城パターンだ。まず常盤木門の枡形から本丸へと踏み入る。天守閣の周囲を物色してまわる。再び常盤木門を出て二の丸へと向かう。ここには銅門が復元されている。一部の工事はまだ続けられているようだ。馬出門から土橋を通って「お堀端通り」と呼ばれる堀沿いの通りに出た。二の丸の隅櫓が堀の水面に映えて美しい。
 天守閣の入場時間までまだ時間がある。お堀端通りをそのまま北へ、小田原駅方向へ行くと北条氏政・氏照の墓所が残されているので歩くことにした。歩いていると後ろから「朝マックにするか」と声がした。相棒のとも坊だ。街中を徒歩行軍すると想定外の行動を強いられるが、それもまた楽しみのひとつでもある。
 氏政・氏照の墓所は駅東口の路地裏に残されていた。周囲は夜の歓楽街といった雰囲気だ。駅前にはもう一つ押さえておきたいものがある。駅西口の北条早雲の像だ。小田原城を奪取する際に「火牛の計」をもちいたという伝承にちなみ、松明を角に結わいた牛とともに馬上の早雲が再現されている。
 再び城へ引き返す。天守閣内部を観覧、最上階から石垣山城を望見。
 小田原城の北条氏時代の遺構が市内随所に散在しているようだが、とりわけ城山公園の「小峯の大堀切」だけは一見しておきたい。車で10分とはかからない距離だ。実は北条時代の本丸はこちらの方にあったようで、その西側を防御する堀切がこれである。深さ12bというから、城ファンにとっては絶景と言っても過言ではない所だ。
 続いて向かったのは小田原合戦時に徳川家康が布陣した今井陣場跡だ。ここには石碑と東照宮が建てられている。車道から路地を入った行き止まりとなった所にあるので車の場合、注意を要する。家康はここに110日ほど陣を置いていたと伝わっている。
 次は太閤一夜城として名高い石垣山城だ。再び小田原城のそばをすり抜けて市の西側へ向かう。山麓からは急な登り坂が上まで続く。城址そのものは国指定史跡となって公園化されて管理されている。大駐車場完備である。駐車場から直登すると本丸だ。私は先に二の丸へと向かった。二の丸の北側に井戸曲輪がある。石垣で方形に囲まれ、すり鉢状にくぼんでいる。もちろん石垣は崩れてはいるが、その壮大さの余韻は十分に感じられる場所でもある。再び二の丸へと返し、本丸へと向かう。物見台からの風景は壮大なパノラマだ。小田原市街と相模湾が一望のもとに見渡せる。ここで秀吉と家康が小田原城を見下ろしながら立小便し、「関東を家康殿に進ぜよう」と秀吉が言ったとか。
 本丸には天守台が残っている。その後、西曲輪、南曲輪と足を運び、駐車場へと戻った。
 さて、本日最後の目的地は岩原城だ。最初に小田原城を築いた大森氏の城のひとつだ。かつて早雲が一目置いた名将大森氏頼の隠居城でもある。早雲は氏頼の死を待って小田原城を攻め取ったという。今では城址のほとんどが宅地や畑地となって物見台の一部が残っているだけだ。
 時間はまだ午後2時だ。まだ2、3ヶ所はどこかに寄れそうだが、欲張らずに引き上げることにした。気持ちはまだ若いつもりだが、身体の疲れは隠せない。心地よい疲労感に浸りながら大井松田ICから東名を引き返した。帰着、午後4時半。

↑石橋山古戦場跡の佐奈田霊社

↑小田原城二の丸隅櫓

↑小田原城・小峯の大堀切

↑今井陣場

↑石垣山城・井戸曲輪

↑岩原城
11月1日(日)晴/二俣城(浜松市)
 今日は二俣城跡の天守台に天守が再現されるということで、朝一番で乗り込むべく家を出た。
 国民文化祭しずおか2009城跡フェスティバルということで10月から様々なイベントが開催されている。そのうちの一つとして「二俣一夜城」と銘打って開催されたのがこれである。
 期間は一週間ということで解体されてしまう。もちろん史実にのっとった本格的な復元ではない。張りぼてである。それでも城ファンとしては一見しておかなければ悔いを残しそうである。
 城址への車の乗り入れは、この日ばかりは禁止だ。二俣駅から一番のシャトルバスに飛び乗った。城山の上まで行くと思いきや、下で降ろされた。長い石段と坂道を息を切らせて登り、本丸へ乗り込んだ。
「おぉーっ」
 天守閣が眼前に現れた。茶に塗られた板張りの天守閣だ。金色の鯱が朝日に輝いている。すでに数人の同年代の城好きさんたちがカメラを構えてシャッターを切っている。浜松城と越前丸岡城をモデルにしたような感じかな。
 この後、武者行列やら鉄砲隊などの実演が行われるようだが、私の目的は達せられたのでオープニングセレモニーの始まる前に城を後にした。

↑二俣一夜城

↑木彫りの家康公?
10月18日(日)晴/高井城和田城(豊橋市)
 6時半発。豊橋の石巻本町にある高井城跡と和田城跡に出かけた。
 三ケ日から本坂トンネルを抜けると愛知県である。石巻の町はそこから数キロのところである。
 高井城は国道362号小倉橋交差点の南側段丘上にある。したがって手前(東)の和田辻交差点から南に折れ、そこから西に向かった。この城は南北朝の頃、高井主膳正が城館を構えたところと伝えられている。高井主膳正は足利勢の来襲を受けて石巻山城に立て籠もり自刃して果てたといわれている。現在も土塁の一部が残るというので探してみた。あったあった、台地の淵で、住宅地のすぐ隣にあった。それにしてもこの辺も宅地化が進むとなるとこの土塁跡は消えてしまうのだろうか。
 次に和田城に向かった。高井城の北500mほどのところにある。春興院の駐車場に車を置き、周辺を探してみる。この寺の東に馬越川という細流に架かる嵯峨橋がある。この橋の南側に曲輪跡とみられる竹薮があった。泥んこになって踏み込む勇気がなく道路沿いにシャッターを切った。さらに寺の裏手に回ってみた。なんと、目の前に浅い堀跡が東西に伸びているではないか。土塁らしきものも見受けられた。この城も南朝にまつわる伝説を秘めていそうであるが、どうも戦国期の城跡のようでもある。

↑高井城跡の土塁の一部

↑和田城跡の竹薮
10月3日(土)晴/和名城和地城畔田城(田原市、豊橋市)
 10時発。昨日来の雨で今朝まで曇っていたが9時頃にはすっきりした秋空になった。
 今日は渥美半島突端に近い和名城へ向かった。和名城は和名の城とも呼ばれる。南北朝期の城跡といわれるが詳細は分からない。山頂部に遺構が残っているそうだが、城郭関連のサイトを見ても登城を果たした方はほとんどない。登山道が整備されていないからであろうか。道などなくても頂上に向かって登り続ければたどり着くかもしれないが、中高年の私にはそこまでの勇気はない。それでも「城跡登り口」なんて案内板が立っているかもしれないと城山南麓の寅之神社に足を運んでみたが、何もなかった。拝殿の脇にかなり上まで続く石段があったので登ってみたが碑があって行き止まりとなっていた。やはり、登城は無理なようだ。人気のない神社を出て、城山の遠景の撮影で訪城をすませた。
 帰路、半島の太平洋岸沿いにある和地城跡に寄った。国道42号和地交差点を北西に入ってすぐの所だ。道路の北側に三島神社がある。城址はその道路の南側一帯である。残念ながら遺構なしとされる城跡だ。一帯にはビニールハウスが立ち並んでいた。ここには徳川家臣となった戸田尊次が城屋敷を構えた所である。尊次は関ヶ原後に一万石を拝領して大名となり、田原城主となった。遺構なしの訪城はどうもストレスがたまっていけない。
 再び国道42号を浜松方向へ走らせた。豊橋市に入るとすぐに畔田城が太平洋岸にある。すでにアップ済みの城であるが、その後の情報で「城下老人憩の家」に畔田城の模型があることを思い出し、立ち寄ってみた。管理人?さんに聞くと模型はないとのこと、私の勘違いだったようだ。そのかわり、玄関口に畔田城の写真、縄張り図、年表が枠入りで壁に掛けてあった。年表の内容に目を通すと、畔田氏の歴史で私の知らなかったことが記されていた。もう一度、畔田氏関連の城(アップ済み)の内容を見直さなければならないかも知れない。うわっ、大変だ。
 それにしても、地元の方の熱心な研究のおかげで歴史が伝えられ、また史跡が残されていくのだということを改めて実感した。

↑寅之神社前から見た和名城の城山

↑ビニールハウス地帯となった和地城跡

↑城下老人憩の家に展示された畔田城の紹介
9月20日(日)晴/大崎城(豊橋市)
 快晴の青空に引き出されるようにして家を出た。7時発、豊橋港近くの大崎城に向かう。
 大崎城は戦国初期に吉田城を今川氏と牧野氏によって追われた戸田宣成が拠点とした城である。苦節二十年、宣成は吉田城の奪還に成功するのであるが、その間戸田本家(田原城)の最前衛となったこの城を守り続けた。
 大崎城は南北に並ぶ三つの曲輪で構成されているようで、遺構の残り具合も良好だ。最も南の大きな曲輪が主郭と思われ、土橋や土塁の遺構が見られた。この主郭とその北に連なる曲輪の間には大きな堀切が残存している。大きさでは三河有数のものであると案内板に記されていた。
 土塁、土橋、堀切をカメラに捉え得た充足感に浸りながら車を返した。

↑大崎城の主郭虎口の土橋
9月5日(土)晴/北庄城福井城丸岡城大野城一乗谷朝倉館(福井県)
 浜松、4時発。久々の遠出で、とも坊とともに福井の城めぐりに出かけた。
 夏休み中のあの連日の渋滞がうそのように高速道路はスイスイである。
 7時半、北庄城に到着。柴田勝家とお市の落城悲話が伝わる城跡だ。市街地の訪城は車の少ない午前の早い時間がよい。わずかに設けられた駐車スペースにも問題なく一番乗りできる。鬼のような勝家公の像としばらくの間睨めっこして、福井城跡へ移動した。僅か数分の距離である。
 車での訪城で気がかりなのが駐車場の有無だ。さいわいにも福井城の堀端にはコインパーキングが多く設けられていた。これなら城へ横付けしたのと同じで、無駄な移動をせずに済む。福井城は本丸の周囲が水堀で囲まれた平城だ。いつものように堀の外周を回って、搦め手から本丸に乗り込んだ。福井城の本丸は現在でも政治、行政と警察の機能が生きている。天守閣や櫓に替わって県庁や県警本部の庁舎が建っている。もちろん石垣や天守台は残され、保存されている。本丸から西側への出入り口である廊下橋も復元されていた。
 福井城の少し北に郷土歴史博物館がある。ここに外堀の城門が復元されているので車をそちらに向けた。博物館建設の際に発掘されたもので屋外展示物となっていた。
 次は国道8号を30分ほど北上した丸岡城だ。昭和23年の福井大地震で倒壊して再建されたものとはいえ、古材を生かした復興天守は柴田勝豊の築城当時の味わいを残している。内部は3階で、階段は急角度でこぶ付きのロープが垂らされていた。華美な装飾など一切ない。質朴なその造りからは戦国時代を生き続けようとする武将の汗のにおいすら漂っているような気がする。丸岡城の天守は私の最も好きな天守となりそうだ。
 次の目的地は越前大野城だ。再び福井市に戻り、158号を東へ車を走らせる。大野城は織田信長の臣、金森長近によって築城された平山城だ。遊歩道をのんびり歩けば息も切れることなく山頂に行ける。山頂には大天守と小天守が鉄筋コンクリートで復興されている。荒々しい自然石の野面積石垣にコンクリート造りの天守は不似合いな気がする。これは仮想外観とでも言おうか、想像上の外観であるからかもしれない。
 下山は百間坂と呼ばれる登城路を降りた。当時武士が登城に使った路ということだ。実は登城時にこの路があることに気付いていたのだが、あまりの急坂に帰路の体力を気づかって下り道に使わせてもらった次第だ。
 大野の城下に朝倉義景の墓所があり、ちょっとした公園となっている。織田信長の軍勢に一乗谷を追われた義景はここまで逃れて自刃したのである。この公園の東屋で一服して時間を見ると13時近くになっていた。腹の虫も鳴いている。越前大野は名水の街でもある。その名水でこねたという手打ちそば屋さんに入り、腹ごしらえした。
 次は今回最後の訪問地、一乗谷の朝倉氏遺跡だ。再び福井市に向けて車を返す。一乗谷に入るところに遺跡資料館がある。ひとまずここでお勉強、というより休憩だ。(^_^)
 本来なら朝倉氏の館跡背後の山城を目指すべきであろうが、今回はパスだ。
 まず一乗谷の北側入口に設けられた下城戸の遺構を確認だ。そして館前の観光用駐車場に車を入れる。応仁の乱の時に朝倉氏はここ一乗谷を居城とし、後に越前一国を支配する戦国大名となった。館は山裾に建てられ、堀と土塁を方形にめぐらしたものだ。館跡の入口に残る唐門と土塁と堀の組み合わせは、いかにも中世豪族の城館といった雰囲気を与えてくれる。そして一乗谷川の反対側には武家屋敷などの町並みが復元されて当時の雰囲気を盛り上げてくれている。
 駐車場のお土産店に立ち寄り、一服。渋滞もなく、人出も少なく、さらに天気には恵まれて訪城するには最高の一日であった。帰りの高速も渋滞はなく、19時には家に着いていた。

↑北庄城跡の柴田勝家の像

↑福井城

↑丸岡城

↑大野城

↑一乗谷朝倉館
8月23日(日)晴/石巻山城(豊橋市)
 快晴。今日は平地ではなく、久々の山城攻略へ向かった。目的地は豊橋市東部の湖西連峰のひとつ石巻山山頂だ。中腹に展望のためか駐車場がある。車はここまでだ。たしかに豊橋市街が一望でき、夜景スポットとしてはもってこいかもしれない。
 ここから山頂まで20〜30分だ。時刻は午前8時。気温の上昇が肌で感じられる。今日は暑くなるぞ。トレッキング用の登山靴に履きかえ、タオルを首にかけて登山開始だ。往復1時間足らずとはいえ、山道を甘く見てはいけない。スニーカーや革靴はやめたほうがいい。すべる、ころぶ、くじく、危険がいっぱいだ。
 駐車場から数分で石巻神社だ。ここで安全を祈願して山道へ入る。50bほど登ると「石巻山城址」の説明板が立っている。南北朝期の城跡で市内最古の城址だそうだ。城館資料ではこの辺に曲輪と見られる平坦地(曲輪U)があるとなっている。うん、確かに狭いが数段の平場がある。
 さらに山頂をめざして登り続ける。途中、蛇穴とかダイダラボッチの足跡とかいう名所?を通過する。この辺りから石灰岩のむき出した登山道となる。さすがに息が切れてくる。中高年の登山が流行っているようだが、私には無理だ。南北朝の城攻めはきついなぁ。などと独り言、そして汗拭きながら重い足を進める。
 山頂近くに大天狗、小天狗と名付けられた岩がある。資料ではこの辺りを「曲輪T」としている。さらに前進。石灰岩の大きな岩壁、そしてルートには鉄の鎖と鉄梯子が設けられていた。これを登りきると山頂だ。
 山頂部は石灰岩が屹立、城として何らかの施設を構えることは無理だ。ただし、眺望はたいへん良い。豊川市と豊橋市が一望でき、遠く三河湾、渥美半島までもが見える。東海道を下る敵軍の動きは手にとるように分かる。物見台としてはもってこいだ。
 ポカリで水分補給、しばし仙人気分で下界を眺めてから下山。駐車場に着いた時刻はまだ9時前であった。

↑石巻山遠景。

↑石巻山の山頂部。

↑遠く青い山並みの中央最高所は本宮山だ。
8月15日(土)晴/草間城(豊橋市)
 資料調査に豊橋の図書館へ向かう途中、草間城に寄った。
 草間城は畔田(くろだ)氏関連の城址のひとつだ。例によって歴史も遺構も不詳というところだ。城域とされる区域は素盞鳴神社の境内地とその西側の住宅地とされている。神社駐車場に車を置き、鳥居をくぐって神社内に足を踏み入れた。小さな神社であるが、社の周辺は土塁状の盛土で囲まれている。そして社の西側境内地は曲輪状の平坦地となっていた。しかし、後世の土地改変でこのようになったのであろうか。城館資料では、遺構/なし、保存/滅失、時期/不詳、となっている。

↑草間城址。神社西側の平坦地。
8月13日(木)雨/松江城(島根県)
 昨日、家族旅行で出かけて松江に一泊。早朝、部屋のカーテンを開けると曇り空、今にも雨が落ちそうな雲ばかりである。
 今朝は、旅行のコースに私のわがままで押し込んだ松江城へ朝一で登城だ。
 大手前駐車場に車を入れ、まずは大手門跡へと進む。雨はまだ降っていない。よしっ、と気合が入る。そんな私を置いて、わが家の女(妻&娘二人)たちは何が可笑しいのか「キャー、キャー」言いながらさっさと本丸へと向かって行ってしまった。私はあちこちにカメラを向けながらまず二の丸へ。復元された南櫓、中櫓、太鼓櫓を内側から見た。松江神社の前から本丸へ足を踏み入れる。おぉー、天守閣。と見るとわが家の女たちが天守入口で待っていた。もう少し歩きまわりたいのだが、天守閣へ登る。鉄筋の復興天守ではない、数少ない現存天守のひとつだ。
 天守閣を出ると、ミスト状の雨だった。近くの休憩所でしばしの雨宿り。雨の途切れたのを見計らって「さぁ、行くぞー」と私は来た路の反対側へと歩き出した。女たちは心得たもので、私の「城歩きがまたはじまった」とおとなしくついてくる(^_^)。「そっち行き止まりじゃないのー」。「これは枡形と言うんだ」などと若干の説明を加えながら二の丸下の段に出てつかの間の城めぐりを終えた。
 次の目的地は娘どもの強い要望で、縁結びの出雲大社だ。とうとう神頼みかぁー(^_^)

↑松江城天守閣。

↑宍道湖の夕景。前日の天気は良かったのに…。
7月26日(日)曇/一宮砦照山城讃岐屋敷(豊川市、豊橋市)
 厚い雲の間から所々青空が見えている。
 7時発。豊川IC周辺の城址訪問に出かけた。
 豊川ICを降りて151号を北へ約1`のところに三河国一宮として知られる砥鹿神社がある。その300bほど南に一宮砦跡がある。東三河攻略を進める徳川家康が今川方の牛久保城を牽制するために本多信俊らを駐留させていた砦である。混乱する東三河を何とかしようと今川氏真はみずから牛久保城に陣を構え、一宮砦を大軍をもって包囲した。一宮砦危うしの報に接した家康はみずから手勢を率いて出撃、今川方の包囲網を突破して見事一宮砦の危機を救ったというのだ。「東照宮神君後詰めの戦い」と呼ばれるものだ。現在は砦跡全体が竹林となっている。所々に土塁跡が残っている。竹薮に薮蚊はつきものだ。カメラを構える腕や指に蚊が容赦なく襲ってくる。
 次にICの東4`ほどの照山城に向かった。照山そのものは東名高速道路によって分断され高速の北側は採土のために山そのものが削り取られつつある。城跡とされるのは高速の南側のようで、加納寺の周辺に土塁跡などの遺構が残されている。照山城主は牧野筑意というひとで牛久保牧野氏の一族である。家康が遠江へ出陣する際に賀茂神社に戦勝を祈願したというが、その時この照山城に寄ったとされている。また長篠出陣の際にもこの城に止宿したといわれている。城主の牧野築意は讃岐守康成のことであるといわれている。加納寺の山門を入るとペット霊園が設けられていた。
 照山城から再びICの方へ戻り、南へ向かう。ICから2`少しのところに讃岐屋敷と呼ばれる小さな公園がある。牧野氏発祥の地である牧野城址はこの近くである。牧野氏は古白のときに一色城主となりさらに今橋城(吉田城)を築くなどして勢力を拡大したが、長男の能成には牧野城を譲って先祖の地を守らせた。牧野氏は家康とともに関東に移り、江戸期には越後長岡藩主となっている。しかし能成の子孫は牧野の地を離れることなく屋敷を構えて明治に至っている。その屋敷跡である。讃岐屋敷は牧野氏の先祖が讃岐から三河に来住したということからそう呼ばれている。案内図によると土塁や小規模な石垣などもあったようだが、現在は何もない。滑り台やブランコが設置された静かな公園となっている。公園の隅に残された屋敷門だけが時代の名残りをとどめていた。

↑一宮砦跡。

↑照山城址の加納寺。

↑牧野讃岐屋敷之跡の碑。
7月18日(土)曇/伊奈城篠束城(宝飯郡小坂井町)
 天気が気になったが昼近くになって出かけることにした。
 豊橋市の西隣の小坂井町へ向かう。日中の国道1号は渋滞の連続だ。やはり訪城は早朝の方がよい。
 まずは篠束城跡へ到着だ。この城は南北朝期に南朝方の篠塚伊賀守が新田軍に従って三河に進出した際に築かれたとされている。その後、足利方の巻き返しで西郷弾正内蔵助がこの城を居城としたということだ。廃城の時期は分からないが、大正時代頃までは堀の一部が残っていたそうだ。現在は農地化されて遺構はなにもない。城址のすぐ南に医王寺があり、ここに西郷弾正の墓といわれる五輪塔が残っているので、そちらへも足を向けた。
 次に三河湾方向に車を向け、伊奈城跡を目指した。伊奈城は本多氏の居城で、徳川家の葵紋発祥の地と伝わるところでもある。城址の周囲は水田地帯となっている。緑の海に浮かぶ島のようでもある。城址には遺構としては高めの土塁がしっかりと残っていた。そして物見櫓が建てられて城跡の雰囲気を煽っている。
 城址の東側を新幹線が通っているが、その反対側に花ヶ池公園という小さな池を伴う公園がある。松平清康が吉田城、田原城を攻略して伊奈城に入り祝宴を開いたときに、本多正忠が池に生える水葵の葉に肴を盛って差し出したという。その池がこれか?ま、この手の造り物を相手に深く詮索しても仕方がない。似たようなものは他の史跡にも沢山あるし(^_^)
 ところがどっこい、この池、後日調べてみると町指定史跡になっている。池そのものはもとからあったようだ。すみませんでした。

↑篠束城の城主西郷弾正の墓がある医王寺

↑伊奈城址と物見櫓。
7月4日(土)晴/一色屋敷田原城(田原市)
 梅雨時の天気予報はあてにならない。今日は確実に雨と思っていたいたのだが、起きて外を見ると部分的ではあるが青空が見えているではないか。とも坊は用事があるらしい。よし、今日はソロで出かけるか。
 9時発。以前から気になっていた田原の一色七郎の屋敷跡とされている場所を見たくて家を出た。
 4月に大草の一色屋敷跡を訪ねているのだが、そちらは幽居跡といえるもので、渥美郡に勢力を張っていたときの屋敷は田原に置かれていたのだ。場所は田原城の北側で五軒丁弥兵衛沢池という池畔の高台にあったと推定されている。
 10時頃、田原城の博物館Pに車を置き、五軒丁の池の方へ向かった。城址の北側の道路を越えると右手に「じゃじゃ丸広場」と名付けられた小公園があった。もとは田原城の北の守り藤田丸のあったところだ。そこから100mほど先の左側に池があった。たしかに池の南側は高台になっている。しかし道もなく私有地のようなので、池越しにカメラを向けた。池からは牛蛙の重低音の鳴声が響いていた。
 ついでに、再訪となるが田原城内を散策して車に戻った。これまたついでながら田原市の図書館にも寄り、郷土資料をコピーして帰途についた。

↑田原の一色屋敷跡

↑田原城藤田丸跡
6月20日(土)晴/西尾城今川城(西尾市)
 6時半発。今日は以前から行こうと思っていた西三河の西尾城に足を延ばした。東名音羽蒲郡ICで降り、蒲郡市から西尾市へと車を走らせた。途中、深溝、吉良と歴史の町を通過するが、まっすぐ目的地へと向かう。
 西尾は六万石の城下町として栄えたところで西尾城はその府城だ。現在は本丸に三層の櫓が再建されている。普通、本丸に天守閣なのだが、この城は二の丸に天守閣があった。現在は本丸と二の丸が歴史公園として整備保存されている。二の丸北の駐車場に車を置き、二の丸表門である鍮石門(ちゅうじゃくもん/再建)から公園内に入った。二の丸には島津家によって建てられた旧近衛邸が移築されている。二の丸と本丸の間には水堀が残っている。そこの土橋を渡って本丸へと入った。入口に残る土塁に目がいく。本丸には二つの神社がある。西尾神社と御劔八幡宮だ。八幡宮の方は西尾城の前身である西条城時代からある社である。さて、この本丸の最高所にあるのが三層の丑寅櫓だ。名城と呼ばれる天守閣とは比較にもならないが、小さくともきりっとしたそのいでたちからは武士の時代のにおいが伝わってくる。
 公園内には西尾市資料館がある。ここで出版物を買いあさり、城をあとにした。
 今日はもう一つ、寄りたいところがある。今川城跡だ。呼び方は今川館、今川砦ともいうが、ようするにここは今川氏発祥の地なのだ。遠州在住の私としては興味のわく場所でもある。かといってそこに何らかの遺構があるわけでもない。石碑と鎮西探題として名高い今川了俊の墓が残っているだけの場所だ。でも、来たかったのだから仕方が無い。(^_^)
 

↑西尾城丑寅櫓

↑今川城/今川氏発祥之地
6月14日(日)曇/小塩津館・松淵砦・井河津古城(田原市)
 6時半発。今日は渥美半島西部の城館跡へと向かった。
 国道42号を遠州灘に沿って西へひたすら走る。目標は半島突端の伊良湖岬にほど近い小塩津館と三河湾側の松淵砦と井河津城の城館址訪問だ。先週に引き続き、今日も遺構の無い場所だ。ネット検索でもせいぜい1つか2つのサイトが取り上げている程度である。
 私の城館訪問の目的は決して城館資料所載ヶ所の制覇ではない。そこに歴史のかけらでも伝えられているのであれば行って見る。ただそれだけだ。もちろん、道も無く訪問不可能(私にとって)な場所であれば遠景で済ますこともある。また、後日の調査・検討によってサイトアップを断念することもある。
 小塩津館は観光名所の伊良湖岬の手前5キロほどの太平洋岸にある。主は馬場右京進という烏丸家の荘官だ。半島の統一を進める戸田宗光(田原城主)の軍勢の来襲になすすべも無く降ったものと思われる。館跡とされる一帯は林となって踏み入ることはできそうもない。資料では遺構なしとなっている。南側は太平洋で、すぐ近くから砂浜となっている。
 館跡から北へ向かい、三河湾側に移動、福江町に出る。ここに松淵砦の跡がある。あるといっても資料には遺構滅失、宅地化となっており、場所の特定さえも難しいところだ。ただ、字名だけがその手がかりらしい。金五郎坂という。坂ということはそこが周辺より高台になっているということで、かろうじて要害の名残りを感じさせる。
 砦跡から三河湾沿いに東へ7キロ位のところに伊川津町がある。ここには井河津古城という城址があったという。ここも遺構滅失、農地化されて地形も変わってしまっているようだ。戸田氏の支配下に組み込まれた土豪たちとして井河津七党と呼ばれるものがあった。ただ、これだけのことで足を運んだのだが、なんともビニールハウスが立ち並ぶ農地となっていて古城の片鱗もない。
 松淵、井河津の二ヶ所のサイトアップは無理かもしれない。

↑小塩津館跡付近から見た太平洋

↑松淵砦跡と思われる字金五郎坂付近

↑井河津古城跡とされる字御屋敷付近
6月7日(日)曇/雉子山城中瀬古館(豊橋市)
 最近、休日の天気に恵まれずにいたが、今朝は青空が見えていたので家を飛び出してしまった。九州遠征以来の城址探索だ。とはいえ、九州の編集が終わっていないため、あまり遠出をして時間を潰すわけにもいかない。というわけで近場の探索に出かけた。
 場所は豊橋市中心部から南へ数キロの所だ。雉子山城と中瀬古館である。いずれも遺構に乏しいか消滅してしまっているところだ。無論、石碑や案内板の類はない。県の城館資料だけが頼りだ。
 まずは雉子山城へと向かった。国道42号から豊橋市街へと車を走らせる。後はナビ任せだ。しばらくすると正面にジャスコの建物が見える。車は東から西へと農道を走っている。ジャスコの手前に浜田川が南北に流れている。そこに架かる橋には「きじはし」の名が付いていた。その手前東南側に住宅地がある。資料ではその付近が城跡とされている。道端に車を停めてあたりを散策するがそれらしきものは何もない。強いていうならば多少は高台になっているなという程度である。川と高台の組み合わせで要害の地といえば、そうとも見える。
 この雉子山城は寛正年間に富田弾正がこの地の地頭であったと伝えられている。寛正年間は応仁の乱のちょっと前の時期である。
 次の中瀬古館は雉子山城から南西に1キロ足らずのところだ。東雲寺とその周辺が館跡とされている。車でその周囲を回るが、なんとも駐車できそうもない。近くに八幡社があり、その駐車場を拝借して徒歩で向かった。資料では土塁の一部が残っているらしい。場所は東雲寺の墓地の周囲らしい。境内に入り、墓地に目を向けると、その南側と北側が高くなって草木が茂っている。しかし塀の向こう側なので足を踏み入れることはできない。
 中瀬古館には戦国期に今川氏の勢力下に組み込まれた畔田(くろだ)三郎兵衛尉が居住していたといわれている。
 寺を出てその周辺を歩いたが宅地化して当時の名残は感じられなかった。

↑雉子山城近くの浜田川と「きじはし」

↑中瀬古館跡の東雲寺
5月4日(月)曇/小倉城(福岡県)・津山城(岡山県)
 ホテル8時発、小倉城は車で数分のところだ。計画では最後の訪城となる。大手門から本丸へと進み、反対側へ出る。堀の外周を右回りに歩いた。小倉城の天守間は南蛮造りという特徴をもっている。最上階のみが下の階よりはみ出しているのだ。再び本丸へ戻り、天守閣の入場開始の時間を待った。9時、入場。さっさと見てまわり、車に戻った。
 山陽道の渋滞は確実であると予想して中国道をとることにした。そこで脳裏に浮かんだのが津山城だ。渋滞さえなければ15時頃には着く。よし、寄って行こう。身体は疲れているが、後は帰るだけだ。
 津山城着15時半、まだ陽は高い。勇壮な石垣が段々に見える。城ファンならこれを目にして素通りはできないはずだ。自然と闘志が湧いてくる。可能な限り、城内の各所に足を運んだ。約1時間、歩きまわり、車に戻る。
 関西圏に入り、また渋滞に次ぐ渋滞、そして仮眠をとりながら自宅にたどり着いたのは日付が変わり、夜明け寸前の4時半であった。走行距離2,640km、お疲れ様とハンドルをポンと叩いて車を降りた。

↑小倉城

↑津山城
5月3日(日)晴後曇
鹿児島城西郷隆盛関連史跡知覧基地跡知覧城(鹿児島県)

 朝食をキャンセルして6時半にホテルを出発。まず熊本城東側の千葉城跡を確認して一路鹿児島へと車を進めた。県境を越えて鹿児島空港近くに来ると噴煙を上げる桜島が現れる。懐かしい。幼少期の一時期、この桜島を見上げて過ごしたことがある。私にとっては遠い記憶の中の故郷である。そしてわが先祖の地でもあるのだ。
 鹿児島北ICからまず城山へ向かった。城山は鹿児島城の背後の山である。明治十年の西南の役で九州各地を転戦した西郷隆盛以下の薩軍は、最期は故郷鹿児島の地で飾ろうとここ城山に本営を置いたのだ。現在は桜島を望む絶景スポットの展望台として多くの観光客で賑わっている。ここから少し北側に下った所に西郷さんの潜んだ洞窟が残されている。ここから山を下り、鹿児島城へと向かった。
 鹿児島城と言っても天守閣のない館城だ。これは薩摩独特の外城制度による。国そのものが城なのだ。本丸には歴史資料館が建っている。車をそのPに置いてまず周辺部をまわる。本丸御門の前の通りには西郷さんの銅像、私学校跡の史跡がある。それらを撮りながら西郷さん最期の地を訪ねた。そこは洞窟から坂道を下りて来た所である。
 鹿児島城から車で数分の所に西郷さん以下薩軍将士の墓地がある。桜島を正面に望む地である。ここから鹿児島市を出てさらに南へ車を走らせた。
 次の目的地は知覧である。薩摩半島南部の町だ。現在は南九州市となっている。知覧で有名なのは武家屋敷群と特攻平和会館であろう。ここも連休を楽しむ沢山の人で賑わっていた。
 まず平和会館の前を通り過ぎて戦闘指揮所跡に向かった。かつて特攻隊員たちがここで最後の訓示を受け、盃を交わし、訣別の敬礼をした場所だ。平和会館には沢山の人たちが訪れてもここに来る人はいないようだ。次に三角兵舎跡に向かった。出撃命令を待つまで隊員たちが起居していた所だ。平和会館にも三角兵舎が復元されているが、ここは実際に建てられていた場所なのである。寂しい、悲しい森の中であった。
 平和会館とその周辺を見学して次に向かったのは知覧城跡だ。国指定の史跡であるにもかかわらず誰一人訪問者はいない。あの武家屋敷前と平和会館の人混みがうそのようだ。城域は広く、丹念にまわると一日は必要とするかもしれない。とりあえず本丸を目指した。雄大な空堀跡を歩いて進み、最初の虎口を入ると左側に蔵之城、右側が本丸となっていた。
 日暮れとなり、2泊目の宿泊場所へと九州道を北上、小倉を目指した。渋滞に次ぐ渋滞でホテル着は23時少し前だった。

↑城山から見た桜島

↑鹿児島城

↑知覧・三角兵舎跡

↑知覧城
5月2日(土)晴/熊本城人吉城八代城(熊本県)
 昨日の夕方に浜松を出てGWの渋滞に阻まれながらもなんとか午前中に熊本城にたどり着いた。予定では鹿児島までと決めていたが、急きょ変更して今日は熊本県の城をめぐることにした。
 今回の九州遠征の最初は熊本城となった。観光の名所であるから駐車場も満車状態だ。誘導されるがままに入らされたのは三の丸のPだった。城好きにとっては歩くことは苦にならないものだ。じっくり三の丸から攻めてやるか、と闘志が湧いてくる。入場券を買って本丸から天守閣へ直行、なんてことはしない。堀の外周をぐるりと歩き、まずは外側から見事な熊本城を撮るのだ。しかる後に入場券を買って有料区域を丹念にまわる。大天守、小天守の姿は勇壮であるが、同時に石垣の美しさにも感動させられる。
 再び九州道を南下して人吉へと向かった。目的地は人吉城だ。ICから市街地へ入り、球磨川を渡ったところが城跡である。ところが大手口の広場には運動会で見かける屋根テントが並び、多くの人で賑わっている。「人吉お城まつり」なるイベントの真っ最中であった。当然、付近の駐車場は満車だ。またまた誘導されるがままに臨時Pへと入らされた。城からかなり離れさせられてしまい、シャトルバスでお城の会場へと運ばれた。降ろされた所が大手門跡近くだった。ここには多聞櫓が復元されている。そしてイベントでごった返す中を突き抜けて城址へと向かった。有名な跳ね出し石垣の所から城内へと入り、石垣遺構にカメラを向けながら御下門から三の丸、二の丸を経て本丸へと至った。
 次は八代城だ。九州道を再び引き返す。加藤清正の嫡男忠広の代に築かれた城だ。ここは何事もなく城跡は静かに迎えてくれた。散策を楽しむ市民がちらほらしているだけだ。専用の駐車場には1、2台の車が止まっている。陽も傾きはじめている。早足で東側の門跡から本丸へと踏み込んだ。ここは八代宮の境内地でもある。鳥居をくぐり、一旦南側へと堀を渡って外へ出る。ここから堀の外周に沿って右回りに歩いた。江戸初期の角形の城だ。西北隅に大天守と小天守を備えた造りである。今は石垣だけとなっているが、それはそれで風情がある。北側に設けられた橋を渡って再び城内へと入り、大小の天守台跡に上がった。夕暮れが近づき、石垣の色も西日に染まりはじめている。この時間帯の城址はなんとなく私たちの心を感傷的にさせてくれる。
 八代を出て再び熊本市内に車を戻す。宿泊が熊本城近くであるからだ。予定では2日目の朝一で熊本城入りを計画していたためである。

↑熊本城

↑人吉城

↑八代城
4月26日(日)晴/一色屋敷(愛知県田原市)
 7時半、仲間の「とも坊」を誘って田原市へと向かった。晴れてはいるが風が強い。
 渥美半島の中間部に大草という所がある。そこに一色屋敷跡というのがある。愛知県の中世城館の資料には「一色屋敷B」となっている所だ。屋敷の主は一色七郎という武士で、足利一門の流れであるから名門といえる。その一色七郎が隠居した屋敷跡なのだ。今は農地となって何もないようだ。墓跡の碑と邸跡の説明板が立てられている。墓跡ということはかつてここに一色七郎の墓があったということで、昭和40年の土地造成の際に移されたということである。
 私達は改葬されたという一色七郎の墓をもとめて同市大久保の長興寺へと向かった。この寺には戸田氏歴代の墓所がある。その墓所内の西端に一色七郎の五輪塔があった。その前に一色七郎を隠居させてその所領を引継いだ(というより押領した)戸田初代の弾正左衛門尉宗光の墓が建っている。大草の一色屋敷はこの戸田宗光が用意したものである。宗光にしてみれば旧領主に礼を尽くしたつもりであったのだろうが、一色七郎にしてみれば複雑な思いであったに違いない。

↑一色屋敷跡

↑一色七郎の墓(左の五輪塔)
4月12日(日)晴/浜松城(静岡県浜松市)
 7時、訪城の予定はなかったのだが、天気の良さにじっとしていられず、カメラ片手に浜松城へ向かった。
 浜松城公園は桜の名所(あまり知られていないかな)でもあり、満開時には早朝から花見の場所取りが始まる。今朝はどうかなと思いきや、公園駐車場から城址の桜を見ると大半が散り、葉が目立ってきている。すでに花見で一杯という風情ではなくなっていた。もちろん場所取りの光景も見られなかった。
 浜松城は私にとって「史跡夜話」スタートの原点の城でもある。今日は作左曲輪をカメラに収めるのが目的である。初夏とも思えるようなすがすがしい空気を胸一杯に吸い込んで天守台から作左曲輪へと向かった。

↑浜松城作左曲輪