朝倉館
(あさくらやかた)

国指定特別史跡、百名城

            福井県福井市城戸ノ内町     


▲ 一乗谷朝倉館の一方は山裾に接し、三方は土塁と堀に囲まれている。発掘調査の結果、
五代当主朝倉義景の時期の居館跡であったと考えられている。館跡に残るこの唐門は義景
の菩提を弔うために建てられた松雲院の寺門で、豊臣秀吉が寄進したものと伝えられている。

谷間の別世界

 越前における朝倉氏の歴史は黒丸城(福井市黒丸町)にはじまる。南北朝の争乱で対新田義貞戦における戦功で黒丸城を得たのである。初代城主は朝倉広景という。

 広景の後、七代目孝景は応仁の乱(1467)で西軍から東軍に鞍替え、将軍義政から越前守護の内諾を得た。帰国した孝景は守護斯波氏の守護代甲斐氏を武力で屈服させて越前を平定、本拠地をここ一乗谷に移した。文明三年(1471)のこととされている。

 孝景は一乗谷移転後十年で没した。その間、能力主義、合理主義で貫かれた十七ヵ条の家法「朝倉英林壁書」を残している。戦国家法と呼ばれるものである。主だった家臣を一乗谷に集住させ、国内に城郭を構えることを禁じるといったこともこの家法に記されている。孝景は一乗谷朝倉氏繁栄の基盤を固めた武将であった。

 孝景の後、氏景、貞景、孝景と続いた。氏景、貞景によって越前国内の平定は完結し、四代目孝景は朝倉家を越前の戦国大名にのし上げた初代孝景の名を引き継ぎ、近隣諸国へ出兵して名を馳せた。近江の浅井氏との友好関係も四代目孝景の代に始まった。

 孝景の治世三十六年間は一向一揆勢との争いはあったものの他国に例を見ぬ平和な時代であったと言われている。一乗谷内は寺院、町屋、武家屋敷が所狭しと建ち並び、京の戦乱を逃れた公家や文化人らが平安の地として訪れたり、住み着いたりしていた。

 天文十七年(1548)、四代目孝景が没し、義景が十六歳で継いだ。義景の「義」は十三代将軍足利義輝の一字を授かったものである。朝倉家が将軍家からも頼られる存在であったことを物語っている。

 永禄十年(1567)十一月、将軍義輝亡き後、幕府再興を果たすために足利義秋(後に義昭)が一乗谷に身を寄せてきた。この義秋の一行の中に細川藤孝がおり、またこの時に明智光秀が朝倉家に仕えていた。奇しくもその後の日本史にそれなりの影響を与えることになる男たちがこの一乗谷に集っていたことになる。

 義秋が朝倉家に身を寄せたのは言うまでもなく朝倉軍団の力を利用して上洛を果たすことであった。先代までの朝倉家であれば率先して将軍の意に沿ったであろうが、義景は違った。
「これでは、腰が上がらぬわ」
 一乗谷の入口に立った義秋は目前に現れた小都市を見てそう思ったに違いない。何もかもが揃っていそうな谷内には、戦国の血生臭い出来事などどこの世界のことかと思わせる風景が広がっていた。

 谷の入口には城戸が設けられている。巨岩や土塁で構成されたもので、谷幅の狭まった所に構築されている。ちょうど南北に広がる谷間の両端に位置しており、ここに兵を置くことによって谷内は谷外から閉塞される。つまり、谷内の町全体の保全がこの城戸によって意図されているのだ。

 一乗谷における義秋の宿所は南の城戸外の安養寺とされた。

 結局、義景は上洛の兵を挙げることはなく、明智光秀らの工作によって織田信長が義秋上洛の兵を挙げることになったのは周知のことである。

 戦国期にめずらしく一国平和を実現した朝倉家であったが、憂いが無かった訳ではない。加賀の一向宗徒の存在が大きな脅威となっており、合戦も度々起きていたのである。義景が簡単に動かなかった背景にはこうした事情もあったのである。

 元亀元年(1570)、織田信長は畿内近国二十一ヵ国の諸大名や武将に上洛を促した。これに応ずることは将軍義昭への臣従というより、信長への服従を意味していた。ちなみにこの時期の義昭と信長の関係は不和状態となっていた。

 この上洛の催促は朝倉家にも届けられた。専横の度を増す信長の態度に義景は応じなかった。四月、信長は朝倉討伐の軍を発した。

 この戦いで義景は浅井長政の協力で信長を窮地に追い込み、織田軍を撃退した。これより向こう三年にわたる朝倉・浅井と織田の戦いが続くことになる。姉川の戦い、比叡山対峙、小谷城救援と朝倉軍団の出兵が続いた。

 元亀四年(1573)、信長は義昭を追放して室町幕府を亡ぼし、「天正」と改元した。この翌八月、信長は孤立した小谷城を攻略するために出陣した。もちろん義景も浅井救援に出陣した。しかし今回は浅井軍が籠城したまま動きがとれず、朝倉単独で織田軍と戦った。激闘の末、義景は引き上げを命じ、一乗谷へ向かった。織田方の記録では首三千余を討ち取ったとあるから朝倉方の完敗であった。

 ところが、織田軍の進撃は容赦なく、数日の内には府中が落とされた。一乗谷までわずかな距離である。一乗谷にたどり着いた義景らに軍の態勢を整える時間はなかった。父祖の墓前で潔く散る。しかし、重臣朝倉景鏡(かげあきら)の進言により大野に移って再起を期することになった。

 八月二十日未明、大野に移って四日目の朝である。景鏡の反乱によって義景は自刃に追い込まれた。朝倉百年の歴史もこれで終わった。

 義景らの去った一乗谷は織田軍の略奪と放火によってすべてが灰となり、時と共に土に埋もれ、そして田と化した。

 灰となってから四百年、昭和四十二年(1967)に最初の発掘調査が始められ、現在では一乗谷朝倉氏遺跡として朝倉時代当時の様子が解明され続けている。

▲ 朝倉義景館跡。館跡東側山腹からの眺めである。中央の
縦長の緑地が中庭の花壇で、その右が常御殿の礎石群である。

 ▲ 館跡庭園。館跡東側の山際にある。
▲ 天正四年(1576)に村人の手によって建てられた小祠に始まり、現在のようになった朝倉義景の墓。館跡南東隅にある。

▲ 館跡西南角の土塁(外側)。

▲ 一乗谷の中央を流れる一乗谷川。

▲ 中の御殿跡。朝倉義景の母高徳院の屋敷跡。

▲ 湯殿跡庭園。四代当主孝景の頃の庭園とされている。

▲ 下城戸の跡。一乗谷の北の出入口である。土塁と堀、巨石を用いた石組によって構築されている。石組による通路部分は矩形となって外から内側が見通せないようになっている。

▲ 上城戸の跡。朝倉館の南約600bに設けられている。土塁の高さは約5bほどある。

▲ 天正元年(1573)、朝倉義景は大野(大野市)で再起を期するが一族の裏切りによって自刃した。これは大野市に残る義景の墓である。寛政十二年(1800)に建てられ、文政五年(1822)に現在地に移された。
----備考----
訪問年月日 2009年9月5日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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