小谷城
(おだにじょう)

国指定史跡、百名城

              滋賀県長浜市湖北町伊部      


▲ 小谷城は浅井三代(亮政、久政、長政)の居城であり、その歴史はこの城
とともに綴られてきた。これは大広間の曲輪と一段高くなった本丸である。

江北、浅井三代の堅城

 浅井三代とはいうまでもなく亮政、久政、長政のことをいう。亮政以前の浅井氏に関しては、長福寺(伊香郡余呉町)薬師如来像の背銘(建保三年/1215)や円満寺(伊香郡高月町)の鐘銘(寛喜三年/1231)にその名が記されていることから鎌倉時代にはその存在が知られており、江北六郡の地頭京極氏の根本被官十一氏のうちに数えられている。しかしながらその具体的なこととなるとあまり明確ではないようである。

 ともかくも戦国大名としての浅井氏の基礎を築いたのは亮政である。亮政は浅井庶流家直種の次男で丁野(長浜市小谷丁野町)の出身であるといわれる。成人した亮政は浅井本家直政の娘蔵屋の婿となって本家を継ぐことになり、一族の長としての舵取りを担うことになった。

 大永三年(1523)、京極高清の継嗣をめぐり、長男高延を奉じる国人一揆に亮政も参加、主君高清とその重臣上坂信光らを湖北から追い出してしまった。ところが、一揆の盟主浅見貞則の専横ぶりに失望した亮政は自らが主導して国人衆をまとめる動きに出たのである。

 大永四年(1524)、亮政は小谷山の最高所に城を築いた。大嶽(おおずく)城と呼ばれる。この築城は、この後約五十年に及ぶ小谷城の歴史の始まりとなった。

 大永五年(1525)、亮政は浅見貞則を見限り、上坂信光と和して京極高清を大嶽城に迎えた。これは亮政が江北の盟主としての道を歩み始めたことを意味する。

 ところがこの年七月、浅井台頭を不快とする江南六角定頼が越前朝倉教景の来援を得て大嶽城に迫った。この戦いで亮政は防戦空しく落城、美濃に落ち延びた。

 しかし、亮政は翌大永六年(1526)には江北へ帰還して勢力の伸長に奔走したようだ。

 享禄四年(1531)、再び六角定頼と交戦(箕浦合戦)、またしても敗走を余儀なくされたが直ちに復帰している。

 天文三年(1534)、亮政は小谷城下清水谷の御屋敷に京極高清、高延父子ら京極一族とその家臣らを饗応した。これは亮政が名実ともに京極家臣第一の実力者であることを示したことに他ならない。そして小谷城もこの頃には城郭としての体裁を整えていたと言われている。

 一方の六角定頼との抗争は天文四年(1535)から再燃、天文七年(1538)には京極高清の死をきっかけに六角勢の攻勢が激しさを増し、佐和山城、鎌刃城、磯山城、太尾城が落城した。

 この戦いを近江合戦というが、亮政は小谷城に立て籠もって何とか六角勢の攻撃をしのいだ。

 大永五年(1525)以来幾度も六角勢との戦いを繰り返し、その度に敗北を続けていた亮政であったが、着実に江北の実力者としての立場を強固なものとしてきた。戦は負け続けであったが、江北の実力者たり得たのには亮政の人物の良さに負うところが大であったのであろう。人望と人徳を兼ね備えた武将であったといえる。天文十一年(1542)、亮政、病没。

 亮政の死を契機に京極高広(高延改名)が打倒浅井の兵を挙げた。天文十八年(1549)、浅井の家督を継いだ庶子の久政は戦いを避け、和解を申し入れて高広に降った。

 天文十九年(1550)、高広と久政は太尾城(六角定頼)を攻めて六角討伐に乗り出したが、天文二十二年(1553)の地頭山合戦で六角義賢に大敗を喫してしまった。

 この敗戦で久政は六角氏に降った。久政の嫡男猿夜叉(長政)が元服して賢政と名乗ったが、これは義賢の偏諱を受けたものであり、さらに六角重臣平井氏の娘を娶らされたとも言われ、亮政時代とは逆に六角氏に隷属するかたちとなってしまった。

 こうした久政の六角氏従属のやり方には浅井家中で不満を持つものも多く、久政は賢政に家督を譲り、早々と隠居してしまった。とはいえ、久政は六角氏に従属しながらも領内の治世には優れた手腕を発揮したと言われる。戦による覇権争いより、領内の平安を優先した武将であったといえよう。

 永禄二年(1559)、賢政は妻平井氏を離縁して六角氏と決別、再び戦闘状態となった。

 永禄三年(1560)、弱冠十六歳の賢政は二万五千の六角勢を迎え撃つために一万一千を率いて野良田(彦根市)に出陣した。この戦いで初陣ながらも見事に六角勢を撃ち破った。初代亮政以来初の大勝利であった。

 永禄四年(1561)、賢政は長政と改名した。この頃、六角氏が美濃斎藤氏と通じたために長政は尾張の織田信長と関係を持つようになったと思われる。

 永禄十一年(1568)、浅井と織田の関係は深まり、長政は信長の妹お市を娶った(正確な年は不詳)。この頃には長政の江北支配は確固としたものになっており、戦国大名といえるほどの実力を備えていた。この年九月、織田信長は武力上洛を果たした。この戦いに長政も出陣して六角氏を破り、甲賀へ追いやった。

 しかし、長政と信長の親密な関係は長く続かなかった。元亀元年(1570)、信長の朝倉攻めに際して長政は従わなかった。逆に信長の背後を衝くべく出兵したとも言われている。朝倉氏との同盟は父久政の強い思い入れがあり、それを支持する家臣も多かったのであろう。

 この年六月、姉川の戦いで長政は朝倉勢とともに信長と対決、合戦に敗れはしたが、その後は小谷城に籠って一進一退の興亡を繰り返すこととなった。

 天正元年(1573)八月、山本山城の阿閉貞征が織田方に寝返り、小谷城攻防の戦局は浅井不利に大きく傾いた。さらに小谷山北西の焼尾砦浅見対馬守も信長に寝返り、十二日に大嶽城が落城した。翌日には丁野山城、中島城も落城、木之本にいた援軍の朝倉勢も越前に引き上げてしまった。

 信長は朝倉勢を追撃して一気に一乗谷(朝倉館)を襲い、二十日には朝倉義景を大野に追い詰めて滅ぼしてしまった。

 二十七日、織田勢による小谷城攻めが再開された。羽柴秀吉が清水谷から攻め登り、京極丸を占拠、北側の小丸に居た久政を自刃させて本丸の攻撃を開始した。

 二十八日夜、長政はお市と三人の娘(茶々、初、江)たちを信長のもとへ送り届けると、籠城の家臣らに感状を与えて、これまでの戦いの労苦に報いた。同時にこれは最期の覚悟を示したものでもあった。

 九月一日、激しい攻防戦の末に長政は本丸下の赤尾美作守屋敷において自刃して果てた。享年二十九歳であった。江北に台頭した浅井三代の歴史が終わった。

 戦後、秀吉に浅井領の大部分が与えられ、小谷城は秀吉の居城となった。天正三年(1575)、秀吉は長浜城を新築して移り、小谷城は廃された。

▲桜馬場曲輪の浅井氏供養塔(手前/昭和47年(1972)
建立)と小谷城址碑(奥上/昭和4年(1929)完成)。

 ▲ 山腹の駐車場から登山路を進むと、番所跡の手前にこの大きな絵図が掲げられている。
▲ 「番所跡」。小谷城主要部への入り口にあたり、検問施設が置かれた曲輪と見られている。

▲ 登山路は番所跡から一旦西側へ出る。そこからは織田勢が布陣した虎御前山が見える。

▲ 「御茶屋跡」。曲輪を前後に二分するように低くなった土塁跡が見られる。

▲ 「御馬屋跡」。三方を土塁で囲まれた曲輪である。

▲ 「馬洗池」。桜馬場曲輪の下にあり、水堀跡と見られている。

▲ 「首据石」。天文二年(1533)、六角方に寝返った京極氏家臣今井秀信を誅して、その首をこの石の上に晒したと伝わる。

▲ 「桜馬場」。御馬屋跡曲輪の一段上の曲輪。石段は「黒金門跡」。

▲ 「大広間跡」。桜馬場曲輪の一段上にある城址中最大の広さをもつ曲輪である。

▲ 本丸南面の石垣。

▲ 本丸から見下ろした「大広間跡」。

▲ 本丸。縁辺の一部に土塁跡が残る。

▲ 本丸北側、中丸との間に設けられた「大堀切」。

▲ 本丸の東側下の曲輪「赤尾屋敷跡」。浅井氏重臣赤尾氏の屋敷跡である。小谷城落城最後の日に浅井長政はここで自刃した。

▲ 平成23年(2011)の大河ドラマに合わせて小谷城下で開催された「小谷・江のふるさと館」。
----備考----
訪問年月日 2011年8月17日
主要参考資料 「史跡小谷城跡」
「浅井三代と小谷城」
 ↑ 歩いて知る浅井氏の興亡」他

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