亀山古城
(かめやまこじょう)

                   田原市亀山町            


▲ 亀山古城の周囲はかつて池であったが近年埋立てられて豊かな
耕作地帯となっている。正面の社殿が見える森が城址である。

池に囲まれた古城

 ここ亀山の地は縄文時代からの遺跡が残されており、古代より半島先端部における集落域であったようだ。
 また半島先端の伊良湖岬から志摩国鳥羽までは海路わずかに20kmという近さもあって、古くからこの地域は伊勢神宮の神領になっていた。伊良湖御厨七郷と呼ばれる地域がそれである。つまり、伊良湖、堀切、小塩津、亀山、中山、保美、畠といった村々のことであり、伊良湖岬から約10km圏内の地域である。亀山の地名は神山が転訛したものだと言われている。御厨のなかでも特別な地域であったのかと思いたくなる。
 この亀山村には大きな池があった。古城はその池に突き出した岬の先端に構えられていた。その大きな池も現在では干拓されて一面の耕作地帯となっている。
 現代では広大な土地に農業用水路が完備され、毎年豊かな実りが提供されているが、近代に至るまで農作物の収穫はその年の天候に大きく左右されていた。とりわけ、水源地の確保はその土地の収穫量の維持のためにも最も重要なことであった。この古城はその水源地としての池の確保、管理のために構えられたものと思われる。
 城館資料には遺構なし、時期不詳とあり、城主として烏丸大納言の名がみえる程度である。
 烏丸大納言というのは烏丸資任のことで、応仁の乱(1467)当時の公卿である。城主として名がみえるのはこの当時、御厨が烏丸氏の荘園となっていたからであり、古城そのものは水源地の確保という観点から考えると、それ以前の伊勢神宮の御厨時代から存在していたものと思われる。
 伊良湖御厨が烏丸氏(保美城)の荘園として維持されたのも資任の死によって終わった。資任の死を待っていたかのようにして田原城の戸田宗光が伊良湖七郷に乱入、その支配下に組み入れてしまったのである。
 その後この古城がどうなったのか分からない。
 ▲ 城址先端部から見た風景。かつて底なしの池といわれた豊島ヶ池も現在では一面の農耕地となっている。
▲ 城址は豊島神社の境内地となっている。

▲ 城址に建つ豊島神社の本殿。
----備考----
画像の撮影時期*2009/12

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