保美城
(ほびじょう)

                   田原市保美町            


▲ 保美城跡は現在の霊山寺とその周囲とされている。これは
霊山寺の山門で、城館に関わる遺構はないようである。

烏丸大納言の都落ち

 保美の里は伊良湖御厨七郷のうちのひとつである。ここ渥美半島の先端部は古くより伊勢神宮の荘園、つまり御厨となっていた地域である。
 南北朝の争乱が収まり、室町幕府による守護権力が強化されるようになると、諸国の荘園は衰退していった。ここ伊良湖御厨も例外ではなかったようで、六代将軍足利義教の頃には公卿清閑寺家の所領となっていた。
 八代将軍義政の頃になると、どのような経緯か分からないが、御厨は清閑寺家から烏丸家の所領に変わった。荘園の衰退期であったとはいえ、清閑寺家も烏丸家も武家ではなかったから、その所領は荘園であった。呼び名も神宮領時代からの伊良湖御厨のままであったようである。
 さて烏丸大納言資任である。資任は今参(いままいり)局や有馬持家らとともに三魔と呼ばれ、将軍義政の側近であった。義政の将軍就任当初においては幕政に大きく関わっていたようである。出自は義政の母である日野重子のいとこにあたる。
 しかし世情は複雑怪奇の様相を呈し、将軍後継問題等様々な問題が絡み合い、やがて細川勝元と山名宗全という二大勢力に分かれて対立するという事態になってゆく。
 数十万の軍勢が京都に集結して一触即発の事態となったいま、従一位准大臣という地位に上り詰めた資任であったが、公卿の身ではなす術もなかった。
 応仁元年(1467)、ついに両軍が激突、京都の街は戦場となり、多くの之寺院や屋敷が焼失してしまった。多くの公卿が戦火から逃れようと、それぞれの縁を頼って有力な守護大名のもとに都落ちした。
 烏丸資任も都を離れた。資任は有力者の庇護下に入ることをせず、自らの所領である伊良湖御厨に逃れた。この地は守護や国人土豪による侵略を未だに受けていない、平穏な土地であったのだ。
 資任はここ保美の里の霊山寺の傍らに居を構え、潔堂義俊和尚に帰依して出家した。権謀渦巻く乱世から身を遠ざけ、余生を求道一筋に生きようとしたのであろうか。
 翌応仁二年(1468)、保美の南、太平洋に面した堀切の地に潔堂和尚(曹洞宗)を開山として迎え、常光寺を建立した。
 そして自らは霊山寺二世として保美の地で暮らし、文明十四年(1482)に没した。
 資任が没して数年後、御厨は田原城主戸田宗光の侵攻によって消滅した。
 ▲ 「烏丸の墓」。霊山寺裏手に残る烏丸資任の宝筐院塔。
▲ 霊山寺門前に建てられた「烏丸大納言御舊跡」の碑。

▲ 霊山寺境内の烏丸資任お手植えとされるヤマトタチバナ(2代目)。
----備考----
画像の撮影時期*2009/12

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