畔田城
(くろだじょう)

                   豊橋市城下町            


▲ 畔田城の本丸部分。円形状の平坦地で土塁はない。周囲の雑木に阻ま
れてその先が見えないが、ここは太平洋に面した断崖の上なのである。

波頭打寄せる
     断崖の古城

 戦国時代、といっても応仁の乱以前のことである。
 豊橋市の南部、遠州灘にほど近い所に東観音寺(小松原町)がある。この寺の寛正二年(1461)の棟札に畔田遠江守とその弟修理亮の名が記されているという(「渥美郡史」他)。ここ畔田城はこの寺から海岸に沿って西約9`のところにある。この城の主が畔田遠江守であったと見られているのである。ということはこの当時の畔田氏の勢力範囲が現在の豊橋市南部の遠州灘に面した一帯であったといえようか。何分、史料に乏しく、棟札以外のことは分からないらしい。
 畔田氏に関連する城址が他に三ヵ所ほど伝えられている。草間城(豊橋市向草間町)、雉子山城(同市畑ヶ田町)、中瀬古館(同市野依町)がそれである。何れも伝承内容に乏しく、正確なことは分からないが、どうやら畔田城が最も古いのではないかと思われる。ここ畔田城を起点として渥美郡中部へ勢力を広めたものと思われるが、どうであろうか。
 畔田氏は後に、天文・弘治の頃(1532-58)には今川氏に属していたとされている。小土豪ではあったが、したたかに戦国乱世を乗り切ろうとしていたようだ。当然、戸田氏時代(田原城)にはその支配下に属していたはずである。
 その昔、村人は城の南側の平地に居住していたという。「城下」の地名はここからきている。しかし、波による浸食崩壊によって村人たちはしだいに高台へ移るようになり、今では城址が最も海に近くなったのだと伝えられている。
 現在、城址を訪ね、本丸跡に立つと太平洋の波浪の打寄せる音が聞こえる。確かにここは海岸に迫り出した断崖の上なのである。残念ながら本丸からは木々に阻まれて海を見ることは難しい。
 資料によると遺構の一部には大戦末期に本土決戦用の施設のために改変された可能性が高いとある。城下町内には陸軍第七十三師団によるトーチカ跡が現在も残るという。この古城跡も沿岸の見張り所として利用されようとしたのであろうか。

▲ 曲輪Uから曲輪T(本丸)に続く土橋。現在では土橋の一部が崩れたのか板橋が架けられている。
 ▲ 城址入り口の道路脇に立てられた城址の標柱。
▲ 曲輪Vの入り口部分に残る土塁跡。

▲ 曲輪Uと曲輪Vを区切る空堀跡。

▲ 城址近く国道42号沿いの「城下老人憩の家」。

▲ 老人憩の家の玄関口には畔田城の写真、縄張り図、年表が掛けられている。
----備考----
画像の撮影時期*2009/02
画像追加*2009/10

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