中瀬古館
(なかぜこやかた)

                   豊橋市野依町            


▲ 中瀬古館跡の東雲寺。館跡はこの東雲寺およびその周辺の住宅
地域とされている。遺構は部分的なものであり、その規模は不明である。

郡東の小土豪畔田氏

 郡東とは渥美郡東部のことで現在の豊橋市域をさす。市中心部から南へ5`ほどに梅田川が東西に流れている。この川の周辺に戦国期の土豪畔田(くろだ)氏にまつわる城館跡が三ヵ所ほど点在している。草間城(豊橋市向草間町)、雉子山城(同市畑ヶ田町)、そしてここ中瀬古館である。いずれも城館史についての記録に乏しく、伝えられている内容は伝承の域を出ていない。
 ただ、この中瀬古館の主とされる畔田三郎兵衛尉という武士には今川義元から書状が発給されていることもあって、その存在が現実味を帯びて迫ってくる。
 その書状の日付は弘治三年(1557)十一月となっているから、今川義元が駿河、遠江、三河三ヵ国の戦国大名として絶頂の時期にあった頃である。当然ながら地域の土豪としては存続のために今川方に属してその被官とならざるをえない。
 畔田氏は今川氏に仕える以前は戸田氏に仕えていた。畔田氏のわずかに残された伝承や史料から推量すると、戸田氏の勢力拡大によって高師郷や野依郷といった梅田川流域付近に所領を得て代を重ねたものと思われる。
 ところが戸田氏(田原城)は竹千代(徳川家康)強奪事件によって今川義元の怒りを買い、天文十六年(1547)に城もろとも滅ぼされてしまったのである。畔田氏が今川氏に従ったのはこの時からと思われる。
 栄枯盛衰は世の常、永禄三年(1560)桶狭間に今川義元が討たれると、三河の国内は乱れた。やがて徳川家康による三河平定が進み、永禄七年(1564)には田原城が徳川勢によって落とされた。
 畔田氏は渥美郡が徳川の支配下となった時にどうしたのであろうか。徳川の臣下となったのであれば何らかの記録に残っているはずである。それがないということは、今川方の将として田原城に籠り、城とともに滅びてしまったのであろうか。もしくは、徳川勢に追われて三河を去り、遠江にでも隠退したのであろうか。

▲ 東雲寺の墓地南縁の黒いフェンス外側に土塁跡が残っている。
----備考----
画像の撮影時期*2009/06

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