高井城
(たかいじょう)

                   豊橋市石巻本町            


▲ 高井城址の風景。葉の落ちた手前の木々の向こうに見えるのが
土塁跡といわれるものである。草木に覆われているためよく分からない。

姫街道を押える
       南朝の古城

 高井城は豊川東岸の河岸段丘の先端部を利用して築かれていた。
 城址の北側に立つと眼下に国道362号線、かつての姫街道が通っている。三河と遠江を結ぶ幹線街道のひとつである。西を向けば、豊川と豊橋の平野部が見渡せる。西から迫ろうとする敵軍勢の動静はいち早く捉えることができそうだ。
 この要害の地に城館を築いたのは南朝の臣・高井主膳正であると伝えられている。後醍醐天皇の命を受けて当地にやってきたとされている。南北朝時代の延元年間(1336-40)のことと思われる。
 高井主膳正はさらに東方の石巻山に砦(石巻山城)を築いた。予想される北朝軍との戦いに備えたものであろうか。
 興国五年(1344)、北朝方足利軍に攻められ、高井主膳正は石巻山の砦で自刃して果てたと伝えられている。
 当然のことながら、足利軍はここ高井城も接収、もしくは破壊したものと思われる。しかし、その後の高井城がどうなったのかは分からない。
 時は下って戦国時代の元亀二年(1571)、山県昌景率いる武田軍が野田(大野田城)の菅沼定盈を攻めた。この時、定盈は城を捨てて西郷(豊橋市石巻中山町)の西郷清員を頼った。武田軍は定盈を追って西郷に迫ったが、鉾を転じて吉田城へ向かった。定盈と西郷清員は共に武田軍を追って「高井」に打って出た、ということが伝えられている。大戦にはならなかったようだが、ここが要害の地であったことは戦国時代であっても変わらなかったといえようか。西郷氏がここに砦を設けていた可能性も否定できない。
 現在は丘の端に土塁の一部といわれる塚状の土壇が見られるだけで、周辺は畑地と化している。ひょっとすると、この土塁は西郷氏の手に成るものかも知れない。

 ▲ 土塁跡といわれる土壇部分。

▲ 城址北側から見下ろした
国道362号・姫街道。
----備考----
画像の撮影時期*2009/10

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