石巻山城
(いしまきさんじょう)

                   豊橋市石巻町            


▲ 石巻山城の山頂。石灰岩が天を衝くように屹立している。
遠方の山並みは三河・遠江の国境で、尾根伝いに往来できる。

南朝の孤塁

 石巻山は湖西連峰の西側に張り出した峰の先端部にあり、標高356mの石灰岩が屹立した山である。古来、山岳信仰の霊山としても知られている。
 鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇と足利尊氏の対立によって日本史は南北朝両立の時代に入った。
 ここ三河の隣国遠江では南朝方井伊氏(三嶽城)が宗良親王を迎えて、延元四年(1339)に北朝方である幕府軍と大激戦を展開している。
 東三河石巻の里に南朝の臣高井主膳正がやってきたのもこの頃のことであったろう。峠ひとつ越えれば遠江国であり、井伊氏の勢力圏である。浜名湖の北に築かれた千頭嶺城とは10kmほどしか離れていない。何らかの連携があってもおかしくはない。
 高井主膳正は後醍醐天皇によって三河国の守護として派遣された土岐国行のことで、石巻山東麓の高井村に城館を構えた。高井城がそれである。そして土地の名を名乗ったのだと伝えられている。
 隣国遠江の状況は井伊氏の敗北によって南朝方は北遠の山峡地帯に逼塞させられてしまった。
 ここ東三河に高師泰、高師兼、仁木義長らの足利勢が押し寄せて来たのは興国五年(1344)のことで、高井主膳正は居城を捨てて詰城として城砦化しておいた石巻山に籠もった。
 城砦化といっても山腹の一部に数段の曲輪を設けただけの簡素なもので、とても万余の大軍の攻撃に耐え得るようなものではなかった。ましてや山頂部は岩場で物見の役には立っても兵を留めることすら無理な地形であった。
 攻め手の足利勢は容赦なく山腹の曲輪に押し寄せた。高井主膳正は、
「もはや、これまで」
 と一族家臣を脱出させた後に自刃して果てたと伝えられている。
 この石巻山城は高井主膳正がはじめから脱出ルートを確保するために城砦化したものであったのかも知れない。尾根を伝って東に向かえば遠江国である。

▲ 石巻山山頂から北西方向の風景。遠く正面の最高峰が本宮山789mである。
 ▲ 石巻山中腹に設けられた駐車場には「石巻山多米県立自然公園 石巻山」の碑が建っている。この周辺には旅館や食堂などが数件建っている。現在は閑散としているがかつては観光地として賑わったようだ。 ▲ 石巻神社上社。石巻山城は城館資料では山頂付近を曲輪T、中腹を曲輪Uとしている。他の資料では山頂付近を上の砦、中腹を中の砦、さらに下って下の砦というように区分している。この神社の西側には旅館や食堂の建物が並んでいるがその辺りが下の砦跡にあたる。中の砦(曲輪U)は神社の東側山腹に数段の平場が残っているのがそれにあたる。
▲ 神社前の登山口から数分で山頂への分岐点に達する。ここに城址碑と城の説明板が立っている。城址碑はご覧のように倒木に遮られて見つけにくくなっている。

▲ 登山道も中程まで来ると石灰岩のむき出た道に変わってくる。これは「石巻の蛇穴」と呼ばれるもので石灰岩の風化水蝕でできた穴である。奥行き13mほどあると説明されている。

▲ これは「ダイダラボッチ(民話の巨人)の足跡」と呼ばれる石灰岩に出来たくぼみ。その昔、ダイダラボッチが本宮山と石巻山をまたいで小便をして豊川ができたとさ(^_^)。

▲ 頂上近くは見上げるような岩場で、鎖が渡してあったり鉄のハシゴが設けられたりしている。

▲ 山頂部は石灰岩の岩場で、平地を確保することは困難な場所である。物見の役には立つが城砦としては不向きと思われる。

▲ 山頂手前(西側)には天狗岩と呼ばれる岩場がある。この周辺がわずかながら平坦地を残している。上の砦、または曲輪Tとされる場所である。

▲ 南側から見た石巻山。山頂から左(西)に下った稜線上に建物が小さく見える。これは旅館群で駐車場もそこにある。もちろん麓からの登山道も用意されているので健脚の方はどうぞ(^_^)。
----備考----
画像の撮影時期*2009/08

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