大野田城
(おおのだじょう)

                   新城市野田           


▲ 城址南側からの風景である。たしかに要害堅固とは言い
難く、大軍に攻められたら逃げるほかないかもしれない。

攻めるに易く守るに難し、
              大野田城

 永禄四年(1561)七月、今川方の城攻めによって野田城を退城していた菅沼新八郎定盈はその翌年の六月に今川方の隙を衝いて野田城を取り返した。野田城は父祖以来の居城で、当主である定盈はその三代目であった。
 しかし取り戻した城は度重なる戦乱によって傷みが激しく、とても城といえるものではなくなっていた。定盈は城の大修築を決意し、その間の仮の居城とするためにまず大野田にあった古砦の増築に取り掛かった。それがこの大野田城である。
 この古砦はもとは城所浄古斎によって築かれたものであったがその後は放置されていた。定盈はこの砦跡を本丸とし、さらに二の丸と三の丸を増築して城としての体裁を整えた。入城したのは永禄六年二月とある。あくまで野田城の修築が完成するまでの仮の居城であったから、城の体裁を整えたとはいえ、実戦に耐えられるほどのものではなかったようである。里人はこの城を見て「攻めるに易く守るに難い城」と悪口したとも伝えられている。
 永禄十一年(1568)十二月、徳川家康の遠州打ち入りに際して定盈はその先陣をつとめ、東三の山家三方衆も家康に属して戦った。
 しかし元亀元年(1570)の九月、武田の武将秋山信友による東三への進出があって、田峯の菅沼氏や作手の奥平氏などが武田の勢力下におかれてしまった。この翌年には長篠城の菅沼氏も武田の軍門に降り、遠江から三河にかけての徳川の版図は武田によって大きく切り崩されつつあった。
 この年二月、武田信玄は甲府を出陣して駿河から遠江に進攻した。三月、高天神城を軽く襲い、北上して天方城を落とし、さらに犬居城を経由して一旦信州高遠城に入った。ここで信玄は馬首を転じて三河に進攻した。四月、武節城、足助城を落として二十八日作手に至り、野田の菅沼定盈の攻略に取り掛かった。
 信玄は武田信豊、馬場信房、秋山信友らを家康の押さえとし、大野田城攻めには山県昌景、相木市兵衛、先手として田峯城主菅沼小法師定忠、岩小屋城主(設楽町荒尾)菅沼満直らに命じ、直ちに出陣して夜中急襲して一人残らず討取るべしと下知した。道案内は菅沼定忠であった。
 定盈にとって田峯菅沼家は本家筋にあたる。双方ともに家中の内に敵味方に分かれた者たちが多くいた。
 定忠は同族の悲劇を最小限に抑えようとしたのか、道に迷ったふりをして本宮山(野田城の西北5.3km)に出てしまった。そこで兵を整え、大野田城に迫る頃には夜が白々と明け始めていた。定盈に時を与えたのである。
 定盈が武田勢の来襲を知ったのは、武田勢が本宮山に居た頃であった。城内では直ちに軍議が開かれたが、出戦、籠城決しえぬまま夜明けを迎えてしまったようだ。そこへ武田の大軍が姿を現した。これまで目にしたことのない万余の大軍を見て軍議は一決した。退城である。ここは城を立ち退き、後日家康の来援を待って一戦することとしたのである。

▲ 城址の東側には大正10年に造成された溜池が広がっている。
 ところが退城の決済を仰ごうにも、この時定盈は閑所(厠)にいたという。家臣らは近習を走らせて伝えたが、定盈は閑所内で前板を叩いて拍子をとり謡曲を謡って動ずる気配もなかったというのである。堪りかねた足軽大将の山口五良作が閑所に出向いてこう云った。
「敵ははや近くまで寄せ来たり、このままでは御討死に疑いなし。大将たるもの命を全うして御運を開かせ給うこそ良将のとるべき道なり、早々に御立ち退きあるべし。それがし御後を防ぎ奉らん」
 定盈は漸く出てきて手水を求めた。近習が急いで水を持ってきた。
「常に湯を用いるに、敵が近付いたとて何ぞ水を用いんや」
 と定盈はいつものように湯を求め、それからおもむろに甲冑をつけ、南の曲輪から悠然と城を出た。と伝えられている。
 城を出て暫くして定盈は側に居た中山與六に、城に火を放ってこいと命じた。與六は城に取って返し火を掛けて再び主の後を追った。
 しかし武田勢は定盈らの退城に気付いて直ちに追撃に移っていた。田峯菅沼の家中後藤金助が逃げる與六を見つけ、組打ちとなった。金助は同家中の小野田源右衛門の助けを得て與六の首を上げた。
 ▲ 城址一帯は密植林となって足を踏み入れるには躊躇してしまうほどである。
▲ 溜池東側道路沿いに立てられた説明板。
 定盈以下の野田勢は豊川の何ヶ所かある浅瀬を渡って宇利から西郷へと逃れた。
 閑所の前で殿軍を宣した山口五良作は部下二三人とともに味方の後を追って豊川の浅瀬のひとつである縄綯瀬というところで敵に追いつかれてしまっていた。五良作は馬上弓矢で応戦したものの馬は疲れて前に進めなくなっていた。五良作は味方を追って宇利へ向かうことを断念、近くの吉祥山へ向かった。疲れた馬を捨てて徒歩となり、山に登りかけたところで武田勢の先手の大将菅沼定忠とその家臣塩瀬善助の二騎に追いつかれてしまった。五良作は残りの矢二本を射たが外れてしまい、善助の槍に突かれてしまった。この時、五良作は指添(さしぞえ/腰刀)を定忠に向けて投げたが頬をかすって後ろの栗の木に刺さったという。これが山口五良作の最期として伝えられている。
 この戦いで野田方四十余人が討死にしたと云われている。
 武田の山県勢は定盈を追って西郷の五本松城に迫ったが、馬首を転じて吉田城を襲い、そして信玄とともに帰国の途に就いた。
 この戦いで大野田城は全焼してしまい、定盈はこの年十二月に修築成った野田城に入ったために廃城となったようである。
----備考----
画像の撮影時期*2007/04

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