武節城
(ぶせつじょう)

                   豊田市武節町          


▲ 武節城本丸跡に建てられた城址碑と武節城陣没者供養碑。

菅沼氏、北辺の城

 武節城は別名地伏(じふせ)城と呼ばれ、永正年間(1504-21)に菅沼定信によって築かれたとされている。
 菅沼定信は田峯城を築き、田峯菅沼氏の祖となった武将である。田峯築城が文明二年(1470)というから十五世紀後半に活躍した武将であったということになる。没年は永正四年(1507)であるから、永正期に活躍したのは定信というよりは嫡男の定忠の方であったといえる。
 当時、東三河は駿河の守護大名今川氏親の影響下にあり、菅沼定忠も今川氏の麾下にあって遠江に出陣、各地の戦場で活躍している。「田峯城縁者の会」編集の出版物には永正十三年(1516)に定忠が武節に兵を進めて築城したとある。つまり、遠江の戦場から帰郷した定忠が郷土の守りを充実させようと、今川氏の勢威を背景に武節へ城を築いたということであろうか。
 地理的には信濃及び美濃との国境に近い位置にあり、まさに田峯菅沼氏の北辺の守りを掌る城といえよう。
 その後、武節城は田峯城の支城として城代が派遣され、菅沼十郎、今泉孫右衛門といった名が伝えられている。
 時は下って弘治二年(1556)十一月、武田信玄の支配下となった信州伊那吉岡城の下条信氏が国境を越えて三河へ進攻、武節城は激しい合戦の末に落城してしまった。武節谷合戦と呼ばれ、城下には姫が身を投げたという「姫井戸」の伝説が残されている。この時期は布里合戦(布里城)で菅沼氏そのものが弱体化していた時期でもあった。
 元亀二年(1571)、武田信玄による三河進出が本格的となり、五代田峯城主菅沼小坊師定忠(先の定忠の曾孫)は武田に属した。
 天正三年(1575)五月、定忠は武田勝頼に従って長篠合戦に参陣したが、合戦は武田方の大敗に終った。定忠は落ち行く勝頼を伴って田峯城に入ろうとしたが、留守家臣の反逆によって閉め出されてしまったのである。怒り心頭に達した定忠であったが、ここは堪えて武節城に勝頼を案内した。武節城は勝頼が地獄の戦場を離脱してはじめて一息つくことができた場所となったのである。勝頼はこの城で梅酢湯を飲み、休息してから信州へ抜け、甲州へと帰った。定忠も信州伊那に移り、この翌年に田峯城を襲って反逆の家臣ら九十余人を討取ったが再び伊那に戻り、その後三河に帰ることはなかった。
 この後、武節城がどのようになったのか詳細は分からない。田峯菅沼氏の没落によって奥平信昌の領地となり、天正十八年(1590)の徳川家康の関東移封によって廃城となったという。

▲ 西側から見た武節城跡。
 ▲ 本丸西側の櫓台跡には城山神社が建てられている。
▲ 奥から本丸、二の丸、三の丸と階段状に連なっている。夏より冬の方が分かりやすい。

▲ 城址から見た武節の町並み。山々の向こうは美濃国である。
----備考----
画像の撮影時期*2008/02及び08

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