五本松城
(ごほんまつじょう)

                豊橋市石巻中山町        


▲ 五本松城は西郷正勝が徳川家康(当時松平元康)に臣従した永禄四年(1561)に築いたもの
である。しかし、その半年後には落城の悲運に見舞われ、西郷氏も存亡の危機に瀕した。

西郷氏存亡の危機

 永禄四年(1561)春、月ヶ谷城主西郷正勝は今川氏を見限って松平元康(徳川家康)に属した。桶狭間合戦(1560)後、西三河に自立して三河平定を推し進める松平氏に呼応したのである。しかも相互に婚姻で結ばれた菅沼氏や設楽氏、奥平氏といった東三河の諸氏を巻き込んでの対今川一括離反行動となったのである。この行動は同時に今川方に差し出された東三河諸氏の人質を犠牲にすることも意味していた。
 西郷正勝と東三河諸氏の離反行為に激怒した今川氏真はこれを「三州錯乱」と呼んで吉田城代小原鎮実に東三河諸氏の人質十三人の処刑を命じた。同時に西郷氏及び菅沼氏(野田城)に対する討伐戦闘を開始した。小原鎮実率いる今川勢は嵩山市場口(市場城)を攻め、さらに野田城を攻撃した。
 この間に西郷正勝は月ヶ谷城から峰一つ越えた中山の盆地に新たな城を構えつつあった。これがこの五本松城である。月ヶ谷城もこの五本松城も三河・遠江国境の街道を抑える要衝に違いなかったが大敵に備えるには月ヶ谷城では不十分であったのだろう。正勝は月ヶ谷城を嫡男元正に譲って中山に移り、突貫工事の陣頭指揮にあたった。
 現在は「五本松城址」の標柱が「城屋敷」と呼ばれる地に立つのみで当時の遺構は残されていない。古図を見ると馬場や士屋敷といった名が城の周囲に記されている。無論、山城ではない。館造りの城である。当然、周囲の山上には有事に備えて城砦の築城が進められ、萩平山城堂山城高城砦五葉城などがそれである。五本松城の東側山上にも砦の構築が進められていたようで堀切の跡が残されている。
 七月、野田城が今川勢の猛攻によって落城した。援将として野田城に籠っていた元正が月ヶ谷城に帰還、野田城主であった菅沼定盈は正勝のもとに身を寄せた。
 九月十一日の夜(年次日付には諸説あり)、正勝は嫡男元正と木の香漂う五本松城で酒を酌み交わしていた。城の工事も一区切りついたのであろうか、心地よい酒であったかも知れない。夜も更け、元正は居城へ戻るために従者十余人とともに五本松城を出た。峠越えの山道を進み、夫婦石と呼ばれる所で背後から鯨波が聞こえてきた。振り返るとさっきまでいた五本松城から火の手が上がっている。
「すわっ、敵の夜襲か」
 元正は従者とともに取って返し、乱戦の城内に突っ込んだ。
 夜襲を決行したのは遠江宇津山城主朝比奈泰長(泰充説あり)であった。宇津山城は五本松城の南東約9kmの浜名湖西岸にあり、今川重臣朝比奈氏一族の城であった。朝比奈勢は夜中秘かに国境の中山峠を越えて五本松城を襲ったのである。

▲ 城址から西側を眺めた中山地区。正面が盆地の開口部で、左の山上に萩平山城が築かれていた。
 南西約6kmにある今川の三河における最大拠点吉田城の動静には警戒怠りなかった正勝であったが、背後の敵の動静把握に抜かりがあったと言わざるを得ない。正勝はこの乱戦の中で元正共々家臣七十余人とともに討死、新築成った五本松城も落城してしまった。この戦いで三男勝茂も討死したと言われている。総領正勝と嫡男元正を失い、西郷氏は一夜にして滅亡状態となってしまった。
 ただ一人、松平家人質として岡崎にあった正勝次男の清員(西川城)はこの存亡の危機を乗り越えるべく松平元康の援助を受け、元正嫡男義勝を補佐して本領の奪還を成し遂げた。その後西郷氏は徳川家に重きをなし、清員の姪お愛(西郷の局)は家康のもとに出仕して二代将軍秀忠の生母となった。
 清員によって奪還された五本松城であるが、焼け落ちた城がどの程度まで回復されたのかは不明である。天正十八年(1590)の関東移封によって廃城となったと思われる。
 ▲ 城址に遺構はなく、字城屋敷と呼ばれるところに豊橋市によって立てられた標柱があるのみである。
▲ 城址の西260mほどの山裾に無住の菩提寺がある。ここに西郷氏の墓碑群があるというので行ってみた。

▲ 菩提寺裏の丘の上に残る西郷氏の墓碑の一部。草に埋もれていた。
----備考----
訪問年月日 2011年3月19日
 再訪年月日 2011年10月16日 
主要参考資料 「西郷氏興亡全史」他

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