高城砦
(たかしろとりで)

                豊橋市石巻中山町        


▲ 高城砦の峰を五葉城近くから望見。砦跡は標高381mで、
その名のごとく付近の山並みを見下ろす高所にある。

雌伏の城砦

 この砦跡は単に「高城(たかしろ/こうじょう)」と呼ばれることが多いようだ。資料によっては「高城砦(たかつきとりで)」とするものもある。場所は新城市と豊橋市の市境となる尾根筋の高所にあり、西郷氏の本拠地中山地区と反対側の新城方面を俯瞰する位置にある。規模としては山頂部を削平しただけの物見台程度のものであり、至近距離にある五葉城と連携した砦であったと考えられている。
 永禄三年(1560)、駿河・遠江・三河の三国を束ねる戦国大名今川義元が織田信長に敗れ、桶狭間に討死した。この結果、東三河の諸氏は西郷正勝の呼びかけで今川を見限り、三河岡崎城に自立した松平元康(徳川家康)に臣従することとなった。西郷氏とは親戚関係にある野田城(新城市)の菅沼定盈も正勝の呼びかけに応じた一人であった。
 永禄四年(1561)、今川方衰えたりとはいえ吉田城(豊橋市)の今川勢は健在で、守将の小原鎮実は離反者に鉄槌を下すべく菅沼定盈の野田城に押し寄せた。野田城には西郷正勝の嫡男元正も援軍を率いて籠城戦に加わっていた。激しい攻防戦の末、定盈は今川方の和を受け入れて開城退去を余儀なくされ、西郷氏のもとに身を寄せた。
 この際にこの高城砦が定盈によって築かれたとされている。
 この年、野田城を落とした今川方は牛久保城の牧野氏に西郷氏を攻撃させているが、定盈も西郷正勝とともに奮戦してこれを撃退している。
 今川方にとって西郷氏は離反の首謀者であり、許されるものではなかった。九月(年月には諸説ある)、突如として遠江宇津山城の朝比奈勢が国境の山を越えて新築の五本松城に夜襲をかけてきたのである。
 この戦いで正勝・元正父子が討死してしまった。かろうじて正勝次男清員(西川城)の働きで滅亡の危機から立ち直ることができたものの定盈の落胆ぶりが目に見えるようである。
 永禄五年(1562)六月、吉田城の小原鎮実が遠江の反乱鎮圧のために軍勢を動かした。そして定盈も動き、守備が手薄となった野田城を攻めて奪還を果たすことができたのである。
 高城砦は定盈にとってまさに雌伏の城砦であったといえる。

▲ 山頂部の削平された曲輪跡。
 ▲ 地図にはないが近年延長されたものと思われる林道。この右側に砦跡に続く尾根道がある。
▲ 主郭周りには腰曲輪跡と思われるわずかな平坦部が見える。

▲ 砦付近から見た五葉城。直線で100m余りの距離である。
----備考----
訪問年月日 2011年7月15日
主要参考資料  「中部地方の中世城館・愛知」他

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