あまかたじょう
(あまかたじょう)

                   周智郡森町向天方           

天方城址
▲ 城址本曲輪跡。現在は城ヶ平公園として手が加えられている。

生き残った
      国人領主

 それまでの大鳥居にあった城(天方本城)からここ新たな城へ移った天方山城守通興は、さらにこの周囲に砦や物見台を築き、また南隣の飯田城の山内氏とも連絡を密にするなどして自存のための態勢を固めていた。
 ときは永禄十一年(1568)、祖父の代より仕え続けてきた今川氏も氏真の代となってからは当てにもならず、ここ天方の地にも徳川か武田がいつ攻め込んで来てもおかしくない状況にあったのである。おのれの土地は自らの手で守らねばならなかったのである。
 この年の暮れ、完成したばかりの本曲輪にいた通興のもとへ三遠国境の異変が報じられた。徳川勢が遠江へ進攻、そして引馬城を接収したというのである。
 年が明け四月頃までには天竜川以西のことごとくが家康の支配下に入った。滅びた者、離散した者、降伏した者、またはすすんで麾下に参じた者、明暗を分けた陰には様々な人間模様が繰り広げられていたことは云うまでもない。
 五月、今川氏真の籠っていた掛川城が家康に明け渡され、氏真は北条氏を頼って落ちて行った。戦国大名今川氏の終焉であった。
 主家今川氏の滅びた今、戦う大義はただ一つ、わが領地を守ることのみであった。しかし、後ろ楯の無い状態で戦いに勝てるのか。通興の苦悩が察せられる。
 しかし、通興の苦悩など戦国の嵐は一顧だにしない。
 六月に入った。
「遠州に居ながら徳川に帰服せざるとは言語道断」
 勢いに乗る家康は直ちに飯田、天方に向けて兵を出した。榊原康政を先陣とする大久保忠隣、天野康景らの軍勢であった。すでに周北の天野氏は徳川に従っていたのである。
 徳川勢はまず飯田城へ殺到してたちまちの内に攻め落してしまった。城主山内対馬守とその一党悉くが討死という結末であった。数百年にわたり飯田の土地を守り続けてきた一族が、わずか一日にしてこの世から消えてしまったのである。
 六月十九日、徳川勢は天方城へ押し寄せた。この日のために堀をうがち土塁を掻き上げ、防備を固めてきた新城である。通興以下城兵らは飯田城の二の舞にはなるものかと死に物狂いで戦った。
 しかし、徳川勢の攻めも凄まじい。城兵の防戦も次第に押され、ついに二の曲輪へ徳川勢の突入を許してしまった。
天方郷
▲ 城址から見下ろす天方郷。現在の周智郡森町
  である。中央を流れているのは太田川である。
 通興は玉砕を避け、降伏を決意した。
「皆の生命と領民を戦禍から守るのが城主たるわしの務めじゃ。後世のものたちは優柔不断とわしを中傷するであろうが、これ以上皆の血を流れさせるわけにはゆかぬ」
 通興の苦渋の決断であった。
 年が替わり年号も元亀となると武田による北、中遠方面に対する誘降工作が活発となってきた。当然、天方城にもその手が伸びた。
「天方山城守、兵備を整え不穏なり」
 家康は天方氏の態度を確かめるかのよう再び兵を向けたのである。大須賀康高、榊原康政らの軍勢であった。通興は徳川勢が外曲輪に迫ると、二心のないことを誓って、開城したのであった。
 翌元亀二年春、武田信玄が二万の軍勢を率いて高天神城を襲い、続いて掛川城を睨みつつ天方城へ迫ってきた。通興は一戦も交えることなく城を出、捲土重来を期して徳川方に身をよせたのであった。
 進言は久野弾正を城将として天方城に置いた。久野弾正は去る永禄十一年に久野城を追放され、武田方に寄食していたのである。そして通興の娘を妻としており天方氏の縁者でもあったのだ。
土塁
▲ 本曲輪北側に残る空堀と土塁。
説明板
▲ 城址駐車場に設けられた説明板。
 元亀三年、信玄は三方原で家康を打ち負かし、三河へ駒を進めたが、そこで死んでしまった。
 翌天正元年三月、家康は武田の手に落ちた諸城の奪回戦を開始した。天方城には平岩親吉、大久保忠隣、渡辺政綱、同守綱らの軍勢が攻め込み、本曲輪を囲むこと三日にわたる攻防戦が展開された。
 兵糧を断たれた弾正は夜陰に紛れて逃走、城は徳川の手に帰した。
 通興は荒れ果てた城に立ち、
「二度と城を離れることはすまい」
 と戦禍に見舞われた里を眺めて涙したに違いない。
 その後は天野氏の犬居城攻めの先導役を務めるなどして家康のために働いた。嫡子通綱は天正七年、二俣城に於いて信康切腹の介錯を務め、高野山に登り仏門に入ったために外孫の青山忠成の五男を養子(通直)とした。
「わしは天方郷を守りぬいた」
 慶長元年(1596)、通興は満足の笑みを浮かべ、七十九年の生涯を閉じた。
----備考----
画像の撮影時期*2004/12