讃岐屋敷
(さぬきやしき)

                   豊川市牧野町            


▲ 讃岐屋敷は、現在は市の管理で公園となっている。屋敷自体は取壊されて
現在はない。公園の一隅に石碑が建てられ、屋敷門が残されているのみである。

父祖の地を守りて

 越後長岡七万四千石の譜代大名である牧野氏の発祥地はここ豊川市牧野町である。
 四国讃岐から応永年間(1394-1428)に地頭として牧野郷に移ってきた田口伝蔵左衛門成富が牧野氏を名乗ったことにはじまる。成富は方形の掻揚げの城を築いて城館とした。現在の牧野城址がそれである。
 成富の後、成時(古白と号す)が継いで一色時家(一色城)に仕え、下克上の戦国の世に名乗り出た。その後、一色家臣の波多野全慶が主の時家を討って一色城主となった。成時は波多野全慶を討ち滅ぼすために瀬木城を築いて駒を進めた。明応二年(1493)のこととされている。
 この年、成時は全慶を討って一色氏の旧領を我がものとして一色城に入った。この後、牧野氏は牛久保城を築いて本拠とし、近郷に勢力を拡張していった。
 牧野氏を国人領主として大きく飛躍させたのは成時である。先の明応二年に全慶を討つため、瀬木城に移ったが、この際に長男能成を牧野城主として残しておいた。
 牧野城は永正二年(1505)に成時が今橋城(後の吉田城)を築いた際に廃城となったと伝えられている。この時に城主能成は城の南に屋敷を構えて移った。それがこの屋敷跡である。
 牛久保の牧野氏が徳川家康に臣従して大名や旗本となってこの地を離れても能成の子孫はこの屋敷を動かず、明治に至った。
 成時がどのような思いで長男能成を父祖の地に残したのか分からないが、戦国期の国人土豪のなかには先祖の地を継承させるために直系の一家を残すということがしばしば見受けられるのである。
 能成の子孫が住み続けたこの屋敷はいつの頃からか讃岐屋敷と呼ばれるようになった。牧野氏の先祖が四国の讃岐からやってきたからであろう。
 屋敷跡に建てられた碑文には、
「応永年間 讃岐ヨリ来タリ此地ニ居ヲ定メシ先祖ト ソノ歴代ノ事蹟ヲ偲ビ 第十四代牧野昌邦ガ遺志ニ依リテ此所ニ之ヲ建ツ 平成八年三月吉日」
 とある。
 ▲ 屋敷跡地は市に寄贈され、「さぬき屋敷公園」として管理されている。
▲ 屋敷跡に残るこの門は鳳来寺の一院からの移築門と伝えられている。

▲ 屋敷門の軒瓦の家紋は牧野氏の「三つ柏」である。
----備考----
画像の撮影時期*2009/07

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