一色屋敷
(いっしきやしき)

                   田原市大草町            


▲ 一色七郎の隠居屋敷であった大草の一色屋敷跡に建つ「一色七郎墓跡」の碑。かつて
ここには七郎の菩提のために戸田宗光が宝憧寺を建てたのであるが、後に廃寺となった。
昭和40年(1965)までここに七郎の墓があったが、土地造成により長興寺に移された。

渥美半島の暴れん坊

 一色氏は室町幕府の侍所の頭人(長官)を交代で務めた四職家(赤松、山名、京極、一色の四氏)の一氏で、いうまでもなく足利氏の支族である。三河はこの一色氏の出身地でもあり、盛衰を経ながらも三河守護であり続けようとした地でもある。
 三河国の守護を一時的に失っていた一色氏は、宝徳三年(1451)に一色義直が嫡流家を継いだ際に三河渥美郡が所領に加えられ、部分的ではあったが守護(分郡守護)の地位を取り戻した。
 一色七郎がここ渥美郡(渥美半島を主とする地域)に郡代としてやってきたのはこの頃ではなかったかと思われる。ちなみに「大草史」では義直の先代(従兄弟)の五郎政氏(教親)の頃に「田原一色の名跡を継いだことと思われる」とある。
 この一色七郎とは何者かということになると、これまたよく分からない。一般的には一色義範(義直の父)の兄持範の子政照ではないかといわれている(「豊橋市史」等)。
 いつ頃来たのか、またその出自も判然としない七郎であるが、ともかく郡代として田原に屋敷を構え、領地の実効支配を進めていったことは事実であったと思われる。
 長禄四年(1460)八月、渥美半島太平洋岸の赤羽根郷(田原市赤羽根町)の浜に遭難船が打上げられた。赤羽根郷は鹿苑院(金閣寺)領であった。この時、郡代の一色七郎は手勢を率いて現場に向かい、遭難船の積荷を略奪した。おそらく鹿苑院側の役人が郡代の暴挙に抗議したのであろう、
「小癪な役人輩が」
 と七郎らは役所を襲い、放火して引上げた。
 京都の鹿苑院は堀河の一色政氏に二度にわたり抗議したようであるが、現地の一色七郎はどこ吹く風で、意に介さなかったようである。下克上の風潮といってしまえばそれまでであるが、この頃の地方における旧来権力の威令は地に堕ちていたといえる。
 遭難船略奪事件から六年後、京都で応仁の乱(1467)が起きた。一色七郎は手勢を率いて西軍山名宗全の陣に駆け参じた。七郎らは十年もの間、京都の陣で戦い続けた。
 文明九年(1477)、戦い疲れた一色七郎は手勢をまとめて帰郷した。ところが、三河は東軍今川義忠の影響下にあり、渥美郡は今川の被官となっていた戸田宗光の押さえるところとなっていたのである。
 戸田宗光は大津(豊橋市老津)に高縄城を築いて居城としていた。あきらかに半島制圧を意識してのことである。
 四面楚歌の田原に戻った一色七郎に戸田とその背後にある今川を敵にして戦う気力はなかったのであろう。このまま自滅を待つのみかと鬱屈していたところに戸田宗光が養子として迎えてくれと申し出てきたのである。
「足元に付け込みおって」
 と歯噛みしたが落ち武者同様の身では拒みようもなかった。
 戸田宗光は血を流すことなく一色七郎の所領を得、田原城を築いて本拠地とした。そして七郎は隠居させられて大草の地に移された。
 かつては半島を自在に暴れ回ったであろう一色七郎も、わずかに残った家臣とともに大草の屋敷でおとなしく余生を送る身となってしまった。
 それから二年後の文明十三年(1481)四月、一色七郎は病を得て没した。
 ▲ 田原の一色屋敷跡は田原城址の北側の五軒丁弥兵衛沢池のほとりの高台にあったとされている。これはその池と高台の風景である。
▲ 長興寺(田原市大久保町)の戸田氏墓所内に移葬された一色七郎の墓。石柵内左の五輪塔がそれである。戸田宗光の墓(右側に並ぶ墓の左端)と対面している。

▲ 長興寺。田原城主戸田氏歴代の墓所がここにある。
----備考----
画像の撮影時期*2009/04、06、07

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