八代城
(やつしろじょう)

                   熊本県八代市松江城町            


▲ 八代城本丸の堀と石垣。左側に迫り出した石垣上
には小天守と大天守(最奥部)が建てられていた。

家老の城

 八代地方を治める城としては建武二年(1335)に八代荘の地頭職となった名和義高の地頭代内河義真の築城による古麓城をはじまりとし、豊臣時代には小西行長によって築かれた麦島城がそれに替わった。
 現在、八代城と呼ばれる城が築かれたのは元和五年(1619)の大地震で麦島城が倒壊したためである。つまり、八代の城は古麓城にはじまり、麦島城そしてこの八代城(松江城とも呼ぶ)と変遷してきたことになる。
 元和元年(1615)の一国一城令で多くの城が破却されたが、肥後国(相良氏の人吉城を除く)には熊本城と麦島城の二城が特例として認められていた。八代が海上交通と九州西街道の要所にあたるためである。
 麦島城倒壊当時の領主は、肥後一国の大名となった加藤清正の二代目忠広であった。忠広は直ちに城代加藤右馬允正方に新城(現在の八代城)の築城を命じた。
 完成は元和八年(1622)である。四層の大天守と二層の小天守が本丸北西隅に聳え、櫓七棟が建てられた。石垣には石灰岩が使われたため別名白鷺城とも呼ばれた。
 寛永九年(1632)、加藤氏改易により肥後には豊前小倉藩主細川忠利が封ぜられた。忠利は熊本城に入り、八代城には忠利の父三斎(忠興)が城主(九万五千石)として入った。三斎は四男立孝を八代藩主として立藩させようとしたが、正保二年(1645)閏五月に三十一歳の若さで亡くなり、三斎自身も同年十二月に没したために実現しなかった。
 立孝の遺児宮松(行孝)が八代城に残されたかたちとなったが、翌正保三年に二代藩主光尚は行孝を宇土に移して立藩(宇土藩三万石)させ、代わりに家老の松井興長を八代城主とした。以後、三万石の城主として松井氏が十代続いて明治を迎えることになる。
 松井氏と細川氏の関係は八代城主となった興長の父康之の代に遡る。
 康之は松井家中興の祖となった人物である。松井家は足利将軍家に仕える家柄で、康之は十三代将軍義輝に仕えていた。永禄八年(1565)に義輝が三好・松永らに殺された後は同じ幕臣である細川藤孝と行動を共にし、藤孝が織田信長に仕えるようになってからは細川家の家老として活躍した。藤孝が丹後一国を与えられると康之は同国の松倉城を預かった。後に秀吉が康之の働きぶりに感じて石見半国十八万石に取立てようとした時、康之はこれを辞して細川家に仕え続けることを選んだという。

▲ 本丸表枡形虎口の二の門である頬当門跡から見た石垣。
 関ヶ原後、細川家が豊前小倉に封ぜられると康之は木村城(豊後領)を預かり、二万五千石が与えられた。家老とはいえ細川家は康之を大名並みの待遇でその功に報いたのである。
 こうした細川家と松井家の関係は肥後移封後も変わることなく続き、八代城は家老の城として代々受け継がれ、歴代の城主は藩政の舵取りを担い続けたのであった。
▲ 本丸への正門であった高麗門跡と堀に架かる欄干橋。
▲ 本丸南側の石垣と堀。堀に架かる橋は城内に八代宮が建てられたのにともない、参道として架けられたものである。

▲ 本丸内の八代宮。祭神は南朝の征西将軍として足利方と戦った懐良親王である。八代を拠点としていたことからここに鎮座されたものであろう。

▲ 小天守台から見た大天守台。

▲ 大天守跡に建てられた「天皇陛下御展望之跡」の記念碑。

▲ 北の丸に通じる裏枡形二の門である埋み門跡。
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画像の撮影時期*2009/05

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