津山城
(つやまじょう)

                   岡山県津山市山下           


▲ 南側から見た津山城の石垣と備中櫓。距離をおいて眺めると雄大な
高石垣が幾重にも重なり合って、まるで山全体が石垣で覆われている
ように見える。本丸の備中櫓は平成17年(2005)に復元されたものである。

一国一城の主

 戦国時代、有名無名を問わず多くの一族一党が歴史の流れのなかで消え去っていった。やがて戦国の戦いが終わり、天下の諸国は戦いに勝ち残った武将を新たな領主として迎え、新たな時代へと移ってゆく。この勝ち残りの新たな領主たちも振り返ると、歴史から消え去る運命にあったかもしれないのだ。
 この津山城を築いた森忠政もそうした運命の危機を経て生き残り、最終的に美作一国の主にまでなった武将なのである。
 森忠政が美作十八万六千五百石を拝領したのは慶長八年(1603)二月のことで、これは関ヶ原合戦時の戦功によるものであった。忠政は元亀元年(1570)の生まれであるから、この時三十三歳という働き盛りの時期であった。
 忠政は織田信長の家臣であった森可成の六男である。可成は美濃金山城主で、忠政の生まれた元亀元年九月に近江宇佐山城で浅井・朝倉勢の攻撃を受けて討死した。嫡男可隆はこの年四月に越前手筒山城の攻略で討死していたため次男の長可が森家を継いだ。天正十年(1582)、長可は武田攻略の戦功により、信長から信濃川中島二十万石を与えられて海津城(松代城)に入った。この直後、本能寺の変が勃発、長可は川中島を捨てて金山城に戻った。この変で信長の小姓として近侍していた三男成利(蘭丸)、四男長隆(坊丸)、五男長氏(力丸)がともに本能寺に斃れた。
 本来であれば六男の忠政もこの時に本能寺で討死していたはずなのである。当時千丸と称していた忠政も三人の兄とともに小姓として信長の側に出仕していたからである。ところが、気性が激しく同僚との折合いも悪かったため、母妙向のもとに戻されていたのである。おかげで本能寺の変に巻き込まれずに済んだのであった。
 天正十二年(1584)、兄であり森家の当主でもある長可が小牧・長久手の合戦で討死、十五歳の忠政が金山七万石の当主となった。忠政が本能寺に斃れていれば森家は長可の死によって絶えていたことになる。
 豊臣秀吉没後、忠政は徳川家康に接近した。慶長五年(1600)三月には信濃川中島四郡十三万七千余石を家康から与えられ、海津城に移った。関ヶ原合戦時、忠政は徳川秀忠軍に属して上田城の真田攻めに加わった。そして慶長八年に美作一国へ加増転封となったのである。
 入国した忠政は院庄の構城跡に館を置き、一国支配に相応しい城地の選定に取り掛かった。その結果、現在地である吉井川と宮川の合流点にあたる「鶴山」と呼ばれる丘を利用することになった。古くは嘉吉年間(1441-44)に山名忠政がここに城を構えたことがあると伝えられている。
 翌慶長九年、忠政は「鶴山」を「津山」に改め、城郭と城下町の建設に取り掛かった。築城に際して大工の保田惣右衛門を豊前国に派遣して小倉城の縄張りを調査させ、津山城の築城に生かしたと伝えられている。実際に津山城の天守は小倉城の天守と同じ層塔型であった。城の完成に際しては小倉城主細川家から南蛮風の釣鐘が寄贈されており、津山城天守閣の最上階に架けられていたという。
 城の完成は元和二年(1616)といわれており、十二年の歳月を費やしたことになる。この間に江戸城駿府城、丹波篠山城、同亀山城、名古屋城といった天下普請にも参加させられており、このことで工事が長期化したものと思われる。

▲ 二の丸表中門跡の大階段。この壮大な石段は日本一ともいわれている。
 一国一城の主となった忠政も寛永十年(1633)に食中毒で没した。正室の男子が二人いたがいずれも早世してこの世になく、関成次(森家重臣)の長男長継が家督を継いだ。長継は忠政の次女の子でもあるから忠政の外孫にあたる。この長継の時代に津山藩の支配体制が確立したといわれている。
 延宝二年(1674)、長継隠居して三男長武が三代藩主となった。長継の嗣子忠継はすでに亡く、忠継の子長成は幼かったため、長成が成人するまでということであった。
 貞享三年(1686)、長武隠居して長成が十六歳で四代藩主となった。元禄八年(1695)、犬公方ともいわれる五代将軍綱吉のとき、森藩は幕府から犬小屋普請を命じられた。これは江戸中野村(東京都中野区)に犬小屋289棟と餌会所や番所など164棟を普請したもので、この時の経済的負担は過大なものであった。病弱でもあった長成はこのことが祟ったのか、元禄十年(1697)二十七歳で病没した。長成に嗣子なく、幕府は所領を没収して改易としたのである。
 忠政にはじまった森家の美作一国の支配は九十余年で終わった。森宗家は断絶したものの隠居の長継(二代藩主)は備中西江原(岡山県井原市)に二万石、支藩森長俊は播磨三日月一万五千石、同じく支藩関長治(森家重臣)は備中新見一万八千七百石を与えられ、三家ともに明治まで続いた。
 森氏に替わって津山城主となったのは松平宣富で、十万石であった。宣富は家康の第二子結城(松平)秀康の曾孫にあたり、一門筆頭といわれる家格であった。その後、三代長熈のときに五万石に減らされたが、七代斉孝のときに十万石に復した。八代斉民のときはペリー来航があり、開国の意見書を出したことなどで知られている。最後の藩主は九代慶倫で、安政二年(1855)に家督を継ぎ、明治を迎えた。
 ▲ 表中門東側の見付櫓跡から大階段越しに見た鉄砲櫓跡の高石垣。
▲ 二の丸から見上げる備中櫓。

▲ 城址北側に残る薬研堀。山名氏がここに城を築いたときの遺構と伝えられている。

▲ 裏中門の枡形。

▲ 本丸から見た備中櫓。

▲ 本丸の西隅に建つ「森侯入封満三百年紀念碑」。

▲ 本丸天守台。ここに五層の天守閣が建っていた。当時、四層以上は禁じられていたため、四層部の屋根先を切り落として幕府役人の目をごまかしたと伝えられている。

▲ 天守台近くから備中櫓越しに美作の山々を眺める。

▲ 「森忠政公」の像。城址表口の冠木門跡前で訪れる人々を迎えている。
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画像の撮影時期*2009/05

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