篠山城
(ささやまじょう)

        兵庫県篠山市北新町      


▲ 篠山城は大坂城封じ込めと西国諸侯の押えのために
徳川家康の命によって天下普請で築かれた平山城である。。
(写真・廊下門と枡形門の石垣。)

天守不要の丹波の名城

 通常、丹波篠山城と呼ばれる篠山城は別名桐ヶ城とも呼ばれている。もともとこの山には桐の木が多く生えていたからだと言われているが、霧が転訛したものだとも言われている。
 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後、徳川家康は大坂城の豊臣秀頼と淀殿の勢力を封じ込めるため、さらに豊臣恩顧の西国諸大名の押えとして山陰、山陽に通じる丹波の要衝に天下普請の突貫工事で城を築いた。その城がこの篠山城である。
 工事は慶長十四年(1609)三月から始まり十月にはほとんどの普請を終えたというから早い。十二月には初代城主(松井)松平周防守康重が入城した。作事の方はその後も一年ほど続いたと言われている。普請総奉行は姫路城主池田輝政、縄張奉行は津城主藤堂高虎、助役には西国十六ヵ国二十一名の大名とおよそ八万人の人夫が動員された。
 篠山城築城以前のこの地域の主城は八上城で前田茂勝が五万石の領主であった。家康は慶長十三年(1608)六月に前田茂勝を改易して松平康重を封じたのであった。康重は城地選定の際に盆地中央部の飛の山、笹山、王地山の三ヵ所を候補に上げて家康の裁可を求め、その結果笹山に決まったとされている。天守閣は連立式の立派なものが計画され、用材も準備されていたのだが、建設されることは無かった。理由はよく分らないが、本多正信の「城は立派に過ぎる。もはや天守は不要」の一言で見送られたと言われている。
 慶長十九年(1614)十一月、松平康重は丹波亀山城主岡部長盛と共に軍勢を率いて大坂に出陣、吹田付近の大坂勢を蹴散らして大坂城北口天満橋北方に進出した。夏の陣では亀山に進出して山陰道の守備に就いた。
 元和五年(1619)、松平康重に代わって(藤井)松平信吉が城主(藩主)となり、子の忠国と二代続いた。慶安二年(1649)からは(形原)松平康信が封ぜられて五代続いた。

 寛永元年(1748)、松平氏に代わって青山忠朝が五万石の藩主として入城した。以後、六代百年以上に渡って青山氏時代が続いて明治に至る。江戸期の藩財政は全国的に各藩ともに困窮を極めたが篠山藩も例外ではなく一揆が頻発しており、青山氏時代に於いても二十件以上に達していると言われる。
 四代忠裕、五代忠良はともに老中を務める幕閣であった。最後の藩主となった六代忠敏も幕末期には譜代藩として行動、文久三年(1863)の政変時には二条城の警備に就いている。
 慶応三年(1867)、大政奉還そして王政復古と情勢は大回転する。翌慶応四年(1868)一月、篠山藩は山陰道鎮撫使に恭順の意を示して許され、篠山城は無血開城した。
 明治五年(1872)、篠山城は破却と決定され二百六十余年の歴史に幕を降ろした。



▲ 平成12年(2000)に復元再建した二の丸の大書院。明治の廃城後も大書院は残り、学校や公会堂として利用され続けていたが昭和19年(1944)の焼失していた。
 ▲ 三ノ丸駐車場から見た内濠。
▲ 二ノ丸への入り口、廊下門跡。

▲ 廊下門から最初の枡形、櫓門の石垣。

▲ さらに二つ目の枡形。通路の先はくろがね門跡。

▲ そして二の丸大書院の西側に到着。正面は史料館で大書院見学への入り口である。

▲ 大書院内部。最も格式の高い部屋である上段の間。

▲ 二ノ丸御殿跡と大書院。

▲ 二ノ丸南側の埋門跡。

▲ 本丸への入り口。本丸には青山神社が建っている。祭神は青山忠俊(三代将軍家光幼時の輔導役)と十二代城主忠裕である。

▲ 本丸天守台。天守閣が建てられることは無かった。

▲ 天守台から内濠、三の丸そして丹波の山並み。

▲ 二の丸入口に建つ城址碑。
----備考----
訪問年月日 2013年5月3日
主要参考資料 「天下普請の名城・丹波篠山城」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ