上田城
(うえだじょう)

国指定史跡・県指定建造物・百名城

            長野県上田市二の丸2    


▲上田城は真田昌幸が武田滅亡後に自立・独立のために築いた城である。
徳川の大軍を二度にわたり撃退したことで真田の武名を天下に示した。
(写真・尼ヶ淵上の南櫓。)

真田の独立を支えた堅城

 天正十年(1582)三月、織田信長の甲州征伐によって武田勝頼が滅びた(景徳院)。

この時、真田安房守昌幸は勝頼らを岩櫃城(群馬県吾妻郡)に迎えるための準備をしていたという。結局、勝頼は小山田信茂を信じて岩殿城へ向かうが、信茂の裏切りによって自刃に追い込まれてしまったのである。

その後、真田昌幸は織田信長、上杉景勝、北条氏直、徳川家康、そして再び上杉景勝と次々に臣従先を替えながらも真田領(小県、吾妻、沼田)を守り続けた。後年、「表裏比興の者」と言わしめるほどに昌幸は大勢力の間にあって必死の思いで生き残ろうとしていたのである。

真田昌幸が徳川家康に臣従していた天正十一年(1583)春、昌幸は真田郷の本拠地(真田本城真田氏館)から上田平への進出を実行に移した。交通至便の地に居城を移し、城下町を形成して近世的な支配体制を築いて領地支配をより確実なものとしたかったのであろう。当然、莫大な資金と労力が要る。そこは智謀に長けた昌幸のこと、「上杉の南進を防ぐ」ためと甲府に出張っていた家康に進言してその力を利用した。

築城工事と同時に真田昌幸は近隣諸豪の調略、討滅を進めて小県郡を掌握、勢力の拡充に努めている。ところが、甲斐・信濃は徳川、上野は北条の領有ということで徳川家康は北条氏直と和睦していたのである。

築城工事が始まって間もなく、北条側が沼田城へ城地引き渡し要求の使者を送ってきた。沼田城代の矢沢頼綱は使者を斬ってこれを拒否、北条方との抗争に突入した。天正十三年(1585)四月、北条側から和睦条件の履行を迫られた徳川家康が上野の沼田領を北条に引き渡すように真田昌幸に命じてきた。当然、昌幸はこれを拒絶、「徳川とはこれまで」と上杉へ鞍替えすることを決断することになる。六月、真田昌幸は次男弁丸(信繁=幸村)を証人(人質)として上杉景勝のもとへ送り、臣従を誓うと同時に徳川との戦支度に取り掛かった。

真田昌幸の離反に激怒した徳川家康は八月、大久保忠世、平岩親吉、鳥居元忠らと信州の諸将合わせて七千余の軍勢を真田討伐に向かわせた。徳川勢は佐久方面から上田城の東方に迫った。対する真田昌幸は上田城に、長男信幸は戸石城、従兄弟矢沢頼康と上杉の援兵が矢沢城に陣した。総勢約二千ほどであったという。

戦いは閏八月二日、徳川勢の上田城攻めによって始まった。徳川方は大手門を突破して二の丸門前までは一気に攻め寄せたがここで真田方の猛反撃を食らい混乱に陥った。そこへ戸石城の真田信之らが後方より攻撃を仕掛けたため徳川勢は我先にと退却をはじめ、さらに城内からの追撃を受けて潰走状態となってしまった。増水した神川の渡河に際しては多くの溺死者が出てしまい、徳川方の戦死者は千三百人ほどになったと言われている。後に神川合戦、又は第一次上田合戦と呼ばれたこの戦いは真田方の完勝であり徳川方の完敗であった。その後もしばらくは対陣が続き、小競り合いも起きたが十一月には石川数正の出奔事件もあって徳川勢は完全に撤収した。対陣中の九月には上杉方による上田城の城普請が実施されており、真田昌幸は徳川そして上杉による力を利用して上田城を強固なものに仕上げたのである。

翌天正十四年(1586)七月、徳川家康は再度、真田討伐のために出陣するが、上杉景勝の要請を受けた豊臣秀吉の指示によって陣を引き払っている。十月、家康は大坂城へ出向き、秀吉に臣従を誓った。真田昌幸は天正十五年(1587)三月に秀吉のもとに出仕して臣従を誓い、家康の配下に組み込まれることになった。長男信幸が本多忠勝の娘小松姫を娶ることになったのもこのことによる。

一方、沼田領割譲にこだわり続ける北条氏は秀吉への臣従の条件にこの問題を取り上げた。秀吉は昌幸に替地を与えて沼田城を北条に引き渡した。ただし真田ゆかりの名胡桃城は真田のものとされた。ところが北条方は名胡桃城を襲って奪取してしまったのである。これが引き金となって小田原征伐(小田原城)となり、北条氏は滅びてしまう。

北条滅亡後、大小名らの多くが移動させられたが真田のみは沼田領とともに旧来の地の領有を認められ、豊臣大名としての地位を確立したものとみられる。

慶長三年(1598)、豊臣秀吉の死後、石田三成による反徳川の動きは慶長五年(1600)の挙兵へと繋がって行く。この年七月、真田昌幸は信幸と信繁の二人の息子と共に徳川家康による会津征伐に従軍中であった。二十一日、下野犬伏で石田三成からの書状を受け取った昌幸は徳川方に「残るべし」とする信幸を置いて信繁と共に馬首を返し、沼田城経由で上田城へ戻ったことはよく知られている。

上田城に戻ると「また徳川と戦じゃ」と早々に陣触れを発して籠城戦に備えた。徳川家康が石田三成討伐のために江戸城を出発したのが九月一日、これに先立って宇都宮城の徳川秀忠軍三万八千が八月二十四日に東山道を西に向けて動き出していた。秀忠軍の目的は言うまでもなく「真田討伐」である。

九月二日、小諸城に着陣した秀忠は真田信幸と本多忠政を使者として送り、真田昌幸は神川で会見した。昌幸は「秀忠公に敵対はせぬ。明日にも城を明け渡す所存である」と答えたという。しかし、翌日になっても開城の気配はなく、反対に「城を枕に討死して名を後代とどめん」と前言を翻してきた。

激怒した秀忠は上田攻めを下知すると六日には上田城の周辺で戦闘が発生、徳川勢は城中からの一斉射撃受けるとともに周辺では伏兵に次ぐ伏兵による攻撃を受けて大損害を出してしまった。秀忠付きの軍奉行本多正信はこの日軍令を待たずに猛進した先陣の失態と断じて戦闘に巻き込まれた二人の旗奉行に切腹を命じたほどであった。

翌日、秀忠は一旦小諸まで下がるのであるが、そこへ家康から上洛督促の使者が到着したという。ともかく上田城に構っている場合ではなくなったのである。結局、秀忠は関ケ原の本戦に間に合うこともなく、家康の不興を買ってしまうことになる。

戦後、真田信幸の助命嘆願のこともあって昌幸と信繁は高野山(九度山・真田庵)へ配流となった。昌幸にとっての上田城は大勢力の狭間にあって共に独立自尊を勝ち取った友のような存在であったに違いない。配流後十一年で昌幸没。次男信繁は大坂夏の陣で徳川家康の本陣へ駆け入り力尽きて戦死した。

関ケ原後、上田城は徳川によって破壊されたが所領は真田信幸に与えられた。信幸は父の「幸」の字を捨て、信之と改名して三の丸跡に陣屋を置いて上田藩を立藩した。

元和八年(1622)、真田信之は松代城へ転封となり、仙石忠政が上田に封ぜられた。忠政による上田城再建が認められ、寛永三年(1626)から築城が開始された。真田時代の縄張も利用しつつも近世城郭としての上田城が再建された。仙石氏三代の後、宝永三年(1706)に藤井松平忠周が五万八千石で上田藩主となり、七代続いて明治に至った。


▲本丸西櫓。

▲本丸北東角の「隅おとし」。鬼門除けである。

▲城址南側尼ヶ淵の駐車場。

▲尼ヶ淵から見た西櫓。

▲同じく南櫓。

▲城址東側の二の丸堀跡。けやき並木遊歩道となっている。

▲二の丸橋前に建つ城址碑。

▲二の丸東虎口。

▲上田城おなじみのショット。本丸東虎口櫓門。

▲櫓門入口石垣の巨石「真田石」。真田信之が松代転封の際に父の形見として持ち出そうとしたが微動だにしなかったという。

▲櫓門の内側。

▲本丸側から見た西櫓。

▲二の丸にある上田市立博物館。

▲二の丸北虎口の石垣。

▲本丸北側の堀と土塁。

▲西櫓直下の尼ヶ淵側石垣。

▲尼ヶ淵から西櫓への登り口。
----備考----
訪問年月日 2019年4月30日
主要参考資料 「郷土の歴史上田城」
「真田三代と信州上田」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ