小倉城
(こくらじょう)

続百名城

          福岡県北九州市小倉北区城内    


▲ 小倉城天守閣。昭和34年に復興された。本来は破風なしの層塔型であったが復興に
際しては装飾的な意匠からか破風が付けられ、平櫓であった小天守も二階建てとなった。

細川三斎、
    会心の城

 現在見ることのできる小倉城は慶長七年(1602)に関ヶ原合戦の戦功により豊前三十六万九千石の大名となった細川忠興(三斎)によって築城されたものである。

 それ以前の小倉城は、文永の頃(1264-75)に緒方惟重の居城であったと伝えられているが、その創築の時期に関しては分かっていない。文永の頃といえば蒙古襲来のあった時でもある。その後、戦国期にかけては群雄割拠の渦中にあって、城主は目まぐるしく替わった。

 天正十五年(1587)、豊臣秀吉の九州平定によって小倉城には毛利勝信(吉成)が八万石で入った。勝信は尾張出身の秀吉古参の武将で、森姓を中国の大々名である毛利に改めての入城であった。勝信は子の勝永とともに朝鮮の役でも活躍した猛将でもある。

 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦時、勝信は西軍石田三成方に属していた。このため中津城の黒田如水の攻撃を受けるはめになってしまった。十月のことで、すでに上方では徳川家康による三成らの処断が済んで大勢は決しており、小倉城の兵も多くが逃散して防戦どころではなくなっていた。仕方なく勝信は一斎と名を改め、一族とともに城を落ち延びた。

 後に勝信らは山内一豊預かりとなって土佐に流された。子の勝永は大坂の陣に際して大坂城に入り、豊臣方の武将として戦った。最期は豊臣秀頼の介錯をした後に自決して果てたことで知られている。

 関ヶ原時の黒田如水の九州における働きは格別で、当然のことながら小倉城も如水の手中にあったわけだが、家康の黒田家にたいする恩賞は子の長政に筑前五十二万石を与えたのみで如水には何もなかった。如水はこの後、隠居して静かに余生を暮らすことになる。

 如水の去った豊前に入封されてきたのが細川忠興であった。当初、忠興は中津城に入ったが、翌慶長六年(1601)には小倉城に移り、七年かけて城と城下町の建設を行った。

 城郭に関しては天守と石垣に細川氏独自の技巧と自負がうかがえる。

 天守は層塔型四層の外観であるが、最上層の五階部分が同層の四階部分よりも突出している。いわゆる唐造り、又は南蛮造りと呼ばれるもので、他の天守との違いを際立たせている。

 石垣は軟弱な地盤の関係でゆるやかな野面積の直線勾配となっている。加工した切り石を使わずに自然石のみを集めて築いたというところに細川氏の自負があるといわれている。

 元和六年(1620)、忠興は隠居して中津城に移り、子の忠利が小倉城主となった。寛永九年(1632)、細川家は肥後転封となり、熊本城へ移った。

 替わって小倉城主となったのは譜代の小笠原忠真で、十五万石であった。忠真は将軍家光から九州諸大名の監視役を命ぜられていたという。小笠原氏は十一代続いて明治を迎えた。

 天宝八年(1837)の火災で本丸と天守が焼失した。その後の再建工事では天守は造られなかった。

 慶応二年(1866)、第二次長州征伐では小倉城に熊本、久留米、柳川などの九州諸藩の軍勢が集結、長州進攻の準備についた。ところが長州側は先手を打って高杉晋作率いる奇兵隊をはじめとする軍を小倉攻略に向けてきたのである。戦闘は熊本藩兵の善戦で一進一退を繰り返したが、幕軍指揮官(老中)の脱出を境に諸藩の軍勢も小倉から去ってしまった。孤軍となってしまった小倉藩は八月一日に至り、城に火を放って退去した。

 この後、小倉城は長州の支配下におかれたまま明治を迎えた。

▲ 本丸西側の内堀。西ノ口門土橋からの眺めである。
 ▲ 西ノ口門跡。公園駐車場からの入口である。
▲ 西ノ口門跡を入ると松ノ丸である。これは松ノ丸から本丸への鉄門跡である。

▲ 本丸には明治時代に置かれた第十二師団司令部庁舎の正門跡が残されている。

▲ 本丸から見た天守閣。

▲ 本丸北側の堀跡。

▲ 大手門跡。枡形となっている。

▲ 槻門跡。ここも本丸への入口となっている。

▲ 天守閣観覧者用の登城口。

▲ 天守最上階から東側を望見。眼下に見えるのは大名屋敷を再現した小倉城庭園である。
----備考----
訪問年月日 2009年5月4日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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