鹿児島城
(かごしまじょう)

                   鹿児島県鹿児島市城山町            


▲ 鹿児島城の玄関口である御楼門跡とその石垣。内堀は一面の蓮に覆われている。

島津七十二万石の
          居館城

 島津氏の歴史は鎌倉時代に遡るが、鹿児島城の歴史はそれほどでもない。それは時代状況に応じて島津氏の居城が移り変わり、最終的にこの鹿児島城が居城となったからである。
 鹿児島城の築城開始は慶長六年(1601)又は七年ともいわれている。いずれにしても関ヶ原合戦直後のことで、世の中は豊臣から徳川を中心とする時代へと変わりつつあった時期である。
 ここで鹿児島城築城に至るまでの島津氏の歴史と居城の変遷を簡単に見ておきたい。
 鎌倉時代、惟宗忠久が源頼朝から南九州島津荘の下司職、地頭職を命ぜられ、島津を姓とした。島津氏のはじまりである。しかし三代久経までは任地に赴くことなく鎌倉在住の御家人であった。
 文永十一年(1274)、北九州に蒙古軍が襲来した。この後、幕府は蒙古再来に備えて北九州の防備を強化するために薩摩守護となっていた久経にも九州下向が命じられた。島津家の持場は筥崎(福岡市東区)であった。弘安四年(1281)、久経はここで薩摩の武士たちを指揮して蒙古軍と戦い、数年の間彼らと起居を共にした。久経は鎌倉に戻ることなく、弘安七年(1284)に筥崎の陣中で没した。
 この北九州の陣中において、薩摩の武士たちと領主としての島津氏の関係は深いものとなったと思われ、久経の子忠宗は薩摩に土着することになる。
 島津氏が鹿児島に進出することになったのが忠宗の子の五代貞久の時で、南北朝争乱期のことである。南朝方の肝付兼重らの籠城する東福寺城を攻め落として四男氏久を置き、島津家の拠点とした。
 この東福寺城が鹿児島における島津氏最初の居城となった。鹿児島城の東北約2`の所で現在の多賀山公園がその城址である。鹿児島は薩摩と大隅の両国を支配するに適した場所でもあった。
 氏久の跡を継いだ七代元久は同族の内紛(奥州家と総州家の争い)で勝利した後、嘉慶元年(1387)に新城を築いて東福寺城を出た。新城は清水城で、この後百五十年間にわたり島津家の本城となった。東福寺城から1`ほど内陸に入った山城であった。
 清水城は十四代勝久に至る居城であったが、その間に戦乱の絶えることはなく、十一代忠昌は乱世に失望して自殺したと云われているほどである。勝久も戦乱に悩まされ、伊作島津家の貴久に家督を譲りはしたものの一族内の争いは激化する一方で終には母方の大友氏(豊後国)のもとへ追われてしまった。
 大永七年(1527)、家督を譲り受けた貴久であったが、出水の薩州家島津実久の勢力によって鹿児島を追われ、伊作へ退去を余儀なくされてしまった。貴久はその後徐々に勢力を回復して天文十九年(1550)に至り、二十四年ぶりに鹿児島へ復帰した。
 鹿児島を奪還した貴久は清水城には入らずに新たに城を構えた。内城(うちじょう)と呼ばれる城で、清水城の南1`ほどのところである。城の詳細は伝わっていないが、屋形造りの平城であったといわれている。

▲ 本丸大手口の御楼門跡から見た枡形の内部。石垣には西南戦争当時の弾痕が残っている。
 貴久の夢は三州平定であったといわれている。三州とは薩摩、大隅、日向の三ヵ国のことである。この三ヵ国は初代忠久が守護職であったことから島津家の旧領という意識が代々受け継がれていたのである。
 貴久とその子義久、義弘は力を合わせて敵対勢力の討伐を進め、天正五年(1577)に至って三州平定を成し遂げた。貴久没して義久が十六代当主となっていた。
 義久はその後も勢力を拡大し続け、天正十四年(1586)には九州の大半を平定して豊前国とその周辺を残すところまできた。しかしその翌年、豊臣秀吉の大軍によって薩摩へ押し戻され、ついに降伏するに至ってしまった。
 その後、当主は義弘、家久と続き、関ヶ原合戦後には新たな城下町と治世のための府城を築く必要性が出てきた。十八代家久は、経費節減のために清水城を改修利用すべきとの父義弘の意見を押さえて、上山城(城山)の麓に築城を開始したのである。
 それがこの鹿児島城である。鹿児島城は内城と同様に屋形造りで天守閣は最初から築かれなかった。財政的な理由もあったが、徳川家に対する恭順の意味もあったとされている。普通の感覚からいえば七十二万石の大々名であるから、熊本城級の規模であってもおかしくない。それが方形の本丸と二の丸を並べただけの簡素なものなのである。
「人を以って城となす」
 との言葉はこの鹿児島城によく似合っている。
 物理的には武士の人口が他国に比して圧倒的に多いのである。文政九年(1826)時点での城下の人口が約五万八千人で、そのうち町人は五千人であったとされている。九割以上が武士であったということになる。薩摩独特の外城制度も多くの武士を養っていくためのものでもあった。
 同時に密度の濃い武士社会であったため、その武士としての気風、気概といったものが風化することなく、逆に醸成されていったといえよう。幕末維新における薩摩人の活躍や西南戦争(城山)における薩摩武士の生きざまを見ればそれがわかる。
 鹿児島城を居城とした島津家は十二代続いて明治の廃藩置県を迎えた。本丸は明治六年(1873)の大火で焼失、二の丸も西南戦争で炎上してしまった。現在は石垣だけが薩摩隼人の魂を今に伝えているのみである。
 ▲ 本丸入口に建つ「史跡鶴丸城跡」の碑。鶴丸城は鹿児島城の別称である。背後の城山を鶴が翼を広げたのに見立てて呼ばれるようになったという。
▲ 御楼門跡から枡形に入ると正面に説明板が立っている。その背後の石垣に残る弾痕から西南戦争時の官軍による攻撃の凄まじさが伝わってくる。

▲ 本丸北東角の石垣は鬼門除けとして隅を欠いている。

▲ 本丸には藩主の居館や政庁があったが明治六年(1873)の大火で焼失してしまった。現在は県の歴史資料センター「黎明館」が建てられ、鹿児島の歴史、民俗などが紹介されている。

▲ 本丸に隣接する二の丸には世子や隠居の居館があったが、明治十年(1877)の西南戦争で焼けてしまった。この門は二の丸御門の跡で、建っている門柱は第七高等学校造士館時代のものである。現在は県立図書館が建っている。

▲ 二の丸裏手の「黎明館」駐車場。城山の直下である。この日、桜島の灰が車の上に薄っすらと積もっていた。
----備考----
画像の撮影時期*2009/05

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