小塩津館
(こしおづやかた)

                   田原市小塩津町            


▲ 太平洋側から見た小塩津館。右下に見える細流は文禄川である。こちら側からは10数b
の高台に見えるが、館跡の北側は国道42号と町並みが広がる平坦地となっている。

押し寄せる
      戦国の荒波

 渥美半島は平安時代末期に伊良胡御厨として伊勢神宮領となっていた。鎌倉時代には地頭の介入が禁じられた神領として維持され続けた。南北朝後の室町時代には公卿の清閑寺家領となり、八代将軍足利義政のときには准大臣として将軍の側近にあった烏丸資任の所領となっていた。
 ここ小塩津は渥美半島の先端部に近い太平洋側に位置している。烏丸資任の家臣馬場右京進は荘官として当地に赴任、ここに居館を築いた。
 世は国人土豪の勃興盛んな時代であり、互いに攻伐を繰り返して乱世の様相を深めていた。当然、居館を築くにはこうした世相を考慮して要害の地が求められる。馬場右京進の築いた居館は、南と東が文禄川と太平洋に面する断崖、西も崖淵となって攻め手を拒んでいる。唯一北側のみが街道に面している。交通の監視と税物の集積の便のためであろうか。
 応仁元年(1467)、京都で大きな戦いが起きた。応仁の乱である。将軍の側近であった公卿の烏丸資任は戦乱を逃れ、自領である半島にやってきて保美(田原市保美町)に居住した。
 やがて応仁の乱は地方に拡大、渥美郡には東軍今川氏の後押しで戸田宗光が進出してきた。文明十二年(1480)、戸田宗光は田原城を築いて本拠地とした。戸田氏が東海道方面(吉田城二連木城)に勢力を拡大するためには当然のことながら背後の奥郡(渥美郡の半島部)は制圧しておかなければならなかった。しかし、将軍側近の烏丸領を公然と侵すことはいかに勢い盛んな宗光といえども自重せざるをえなかった。
 文明十四年(1482)、烏丸資任が保美で没した。戸田宗光が頃良しと判断して奥郡制圧に乗り出したのは延徳年間(1489-91)のことであったといわれている。
 戸田氏の軍勢がどのような経路で進撃したのかは分からないが、中山郷(田原市中山町)が全村焼失したと伝えられているから、その隣村の烏丸資任の居館地であった保美も同様に襲われたものと思われる。
 この戦いで馬場右京進は手勢と配下の土豪たちを率いて戸田勢を迎えた(「渥美町史」)が、どこで戦ったのか、また小塩津での戦いはあったのかなど詳細は分からない。おそらくは小規模な抵抗に止まり、すぐに降伏してしまったのではないだろうか。押し寄せる戦国の荒波を前にしては、荘園という古い体質では戦うこともできなかったのではないだろうか。
 馬場右京進はその後も小塩津の館に逼塞していたが、約三十年後の大永三年(1523)四月に至り、とうとう落人となってしまった(「常光寺年代記」)。それ以外のことは分からない。

▲ 館跡の南側は太平洋である。海に流れ出るこの河口は館跡の南縁を流れる文禄川である。
----備考----
画像の撮影時期*2009/06

 トップページへ三河国史跡一覧へ