松江城
(まつえじょう)

                   島根県松江市殿町            


▲ 松江城の天守閣は現存天守12のひとつで、山陰では唯一のもの
である。近世城郭とはいえ入母屋式の五層六階、望楼付きの最上階そ
して下見板張りといった造りは戦国天正期の雰囲気を感じさせている。

子の望み、
         父が叶えし父子城

 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦によって天下の大名配置は大きく変わる。合戦の二ヵ月後、徳川家康のために活躍した堀尾吉晴が遠江浜松城十二万石から出雲・隠岐二十四万石に加増されて子忠氏とともに月山富田城に入城した。
 戦国時代、ここ出雲国の府城は富田城であった。富田城はかつて山陰山陽十一ヵ国を領した尼子氏の居城であり、尼子没落後は毛利氏のものとなって豊臣時代には吉川広家が城主となっていた。
 吉川氏に替わって富田城主となった堀尾父子は山城という時代遅れの城に見切りをつけ、軍事、政治のみならず都市経済の発展をも考慮した近世城郭の新築を目指した。翌慶長六年、吉晴は藩を忠氏に譲って後見となり、同八年に新城築城の許可を幕府から受けた。
 吉晴、忠氏父子は早速城地選定のための実地見聞に出かけた。父子ともに大橋川以北(現松江市街)に城地を求めることに一致はしたが、具体的な場所となると意見が分かれた。
 吉晴は荒和井山(松江城の南西1.5`の宍道湖畔)を適地としたが忠氏は亀田山(現松江城の地)を主張した。吉晴が適地とした荒和井山(=洗合山)はかつて毛利元就が白鹿城を攻略する際に本陣地としたところであった。合戦経験豊富な吉晴ならではの見立てであったといえる。しかし、忠氏は荒和井山では規模が大きすぎ、天守閣も小さく見えるとし、二十四万石では造作も維持も困難であると説いた。また軍事的にも南には大橋川が天然の堀となり、東西は沼地が多く攻めにくく、北は幅広の堀を設けて白鹿古城に遠見、つまりとりでを置くと述べた。さらに荒和井山にもとりでを置き、柵を設けて堅固に守ると説いた。
 こうした忠氏の軍事面における主張は吉晴を説得するに至らなかったようである。しかも亀田山では平城のように見えることが不満であったとも言われている。しかしながら石高に見合った城造りという観点からは忠氏の亀田山説が妥当な線であったことも事実で、現実的であったといえようか。
 ところが慶長九年(1604)八月、忠氏は二十八歳の若さで急死した。原因は分からないが、こんな話しが伝えられている。夏のある日、忠氏は城地検分の踏査を終えての帰途、神魂(かもす)神社(松江市大庭町)に参拝した。そして神主に、
「当社に池があると聞く、一見したい」
 と要求した。神主は禁足地であるとして断ったが、
「国主たるもの見申さず所あるべからず」
 との忠氏の言葉を拒めず、案内した。池近くであろうか、
「ここからは御自身で」
 と神主は足を止めた。
 忠氏は単身で池まで行って戻ってきた。ところが忠氏の顔色が紫色になっていたという。富田に帰城した忠氏はそのまま病床に伏し、やがて死に至った。側近の者たちは禁足地を侵した神罰ではないかと恐れたというのである。池で毒蛇に噛まれたのだとも言われている。

▲ 大手口の馬溜跡と呼ばれる広大な枡形。石垣上の櫓は復元された太鼓櫓である。その下の建物は井戸屋形である。
 忠氏を亡くした吉晴はいつまでも悲嘆に暮れているわけにはいかなかった。忠氏の子三之介(忠晴)が藩主となったが、まだ五歳の幼児である。吉晴が政務を執らなければならない。そして懸案の新城の築城を実行に移さなければならなかった。
「城下の儀は出雲守(忠氏)の望み通り、亀田山を取立て申すべく候」
 と決断した。熱心に亀田山案を説いていた忠氏の思いが死して吉晴の心を動かしたといえる。
 慶長十二年(1607)、築城開始。城地が「松江」と名付けられたのもこの時のことである。縄張りは吉晴が浜松城主時代に家臣となった小瀬甫庵が行った。甫庵は軍略家として名高く、また「太閤記」の著者としても知られている。
 武家屋敷を含めた城郭の完成は慶長十六年(1611)であった。子の望みを叶えて安堵したのであろうか、この年の六月に吉晴は六十九歳で没した。
 三の介は三代藩主忠晴となって藩政を執ったが寛永十年(1633)に病没した。酒が原因とも伝えられている。忠晴に嗣子なく、お家は断絶となった。
 堀尾氏の後、松江藩主となったのは若狭小浜藩(小浜城)九万二千石の京極忠高であった。忠高の治世は短く、寛永十四年(1637)に四十五歳で没した。この時も忠高に嗣子なく断絶となった。
 京極氏の後、松江城に入ったのは松平直政で、信濃松本藩(松本城)七万石からの加増転封であった。直政は徳川家康の次男結城秀康の三男である。大坂冬の陣では真田信繁(幸村)の守る真田丸を攻めて勇名を馳せたことで知られる。
 直政の後は松平氏が十代続いて明治に至った。
 松平七代藩主治郷(不昧)は松平藩中興の祖として知られている。藩財政を立て直すために綱紀粛正、役人の減員、産業、治水と様々な分野で大胆な改革を実施した。
 松江城の天守閣は明治後、旧藩士や地元有志の奔走によって保存され、昭和に入り二度の修理修復を経て現在も戦国末期の威容を保ち続けている。
 ▲ 大手前から見た城址東側の内濠。手前は遊覧船「堀川めぐり」の発着場となっている。
▲ 大手木戸門跡に建つ「史跡松江城」の碑。

▲ 南総門跡から見上げた太鼓櫓。

▲ 南総門から三ノ門に至る階段から眺めた二ノ丸下の段。

▲ 三ノ門跡。ここを入ると二ノ丸である。

▲ 二ノ丸には松平初代藩主松平直政、松江開府の祖堀尾吉晴、松平七代藩主松平治郷、徳川家康を祀る松江神社がある。

▲ 本丸の北ノ門を出ると水ノ手門に至る枡形の石垣が残っている。

▲ 水ノ手門跡を出て振り返ると野面積の石垣群が古城の空気を漂わせていた。

▲ 大手前南側内堀と復元された中櫓(右)と南櫓(左)。
----備考----
画像の撮影時期*2009/08

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