小浜城
(おばまじょう)

県指定史跡

              福井県小浜市城内       


▲ 小浜城天守閣跡の石垣。本丸石垣用の石材は奇岩景勝で有名な蘇洞門(そとも)の花崗岩
が使われたと云われ、城主酒井忠勝は蘇洞門の景観を損なわないように指示したという。

雲の浜のお城と
         領民の涙

 小浜城は別名雲浜(うんぴん)城と呼ばれる。白い砂浜に漁師の干す網が蜘蛛の巣のように見えることから蜘蛛の浜と呼ばれ、それが変化して「雲の浜」となったのだという。

 その雲の浜に築城を思い立ったのが京極高次であった。高次は慶長五年(1600)の関ヶ原合戦に先だち、大津城に籠城して石田三成方の西軍勢と死闘を展開したが、その戦功によって若狭小浜八万五千石の大名として封じられてきたのである。はじめ、高次は後瀬山城(小浜城の南約2`)に入ったが、すぐに海浜の地に城を構えることを考えたのである。海運と陸運の要地に城を構え、城下町を発展させる。水城または海城と呼ばれる城の一長一短を大津城で体感した高次の決断であった。

 しかし、工事は困難を極めた。南川と北川が合流して海に流れ出る河口の砂浜における築城であるから、その埋立てと基礎工事には長い歳月を要したのである。国内津々浦々の船を残らず集めて大石を運ばせ、捨石作業に使った。また国中の炭焼きを召集して基礎固め用の木炭を千d以上も納めさせる(元和五年/1619)など領民の負担も多大なものであったようだ。

 慶長十四年(1609)、高次亡き後を継いだ忠高に築城工事は引き継がれたが、寛永十一年(1634)に出雲松江二十三万五千石(松江城)に転封となり、築城半ばにして小浜を去った。

 その後に入封したのが徳川譜代の酒井忠勝である。忠勝は三代将軍家光に仕え、老中、大老を務め、幕政に大きく貢献している。

 そして忠勝もまた小浜城の築城を引き継ぎ、ついに天守閣の完成をみた。寛永十三年(1636)のことである。天守閣は江戸城の富士見櫓を模した白亜三層の外観であったという。忠勝は天守閣に続いて西の丸、北の丸を構築、寛永十九年(1642)、大手枡型の完成で工事が完了した。

 この間、築城のために年貢の増徴が続けられ、領民の生活は困窮を極めたという。寛永十七年にはついに若狭国内二百五十二ヶ村の名主によって減税の陳情が行われた。その後も遠敷郡新道村の名主松木庄左衛門が代表となって直訴が繰り返された。しかしそれが藩に聞き入れられることはなかった。

 承応元年(1652)、庄左衛門ら総代二十名が捕らえられ、拷問を受けた。ただ庄左衛門一人のみが拷問に耐え、最後まで年貢の引き下げを要求し続けた。その結果、藩は税率を築城以前の率に戻すことにしたが、庄左衛門を許すことはなかった。庄左衛門は磔に処せられたのである。命と引き換えの直訴実現となった。享年二十八歳であったという。

 小浜城はこうした領民の血と汗と涙のもとに築かれた城であったのである。

 藩財政も厳しい状態が続いたが、忠勝の後も酒井家が十四代続いて明治を迎えた。

 明治三年(1870)、大阪鎮台第一分営が小浜城に置かれることになったが、その工事中に二の丸から出火して本丸以外の悉くが消失されてしまった。この事で分営は彦根城に移されることになった。新政府を快く思わぬ不平士族の放火であったとも云われている。

 その後、焼け残った天守閣も廃城令によって解体された。

 現在、小浜城復元計画が進行中とのことである。歴史遺産を後世に残し、伝えることは大切なことであるが、あくまで周辺住民等との協調の上に進められるべきである。再び庶民に犠牲を強いる小浜城であってはならないと思うからである。

▲ 本丸西側の石垣と天守台。

▲ 本丸天守台跡。本丸西南隅に位置する。

▲ 本丸東南隅櫓跡の石垣。

▲ 本丸跡の小浜神社。明治八年(1875)、酒井忠勝公を祀って建てられた。

▲ 本丸跡には小浜神社とともにに稲荷社も建てられている。もとは北の丸の鎮守神であったが、維新後にここへ移された。八助稲荷大明神と呼ばれている。
 八助は酒井忠勝の仲間で小浜から江戸へ文箱を運ぶのに普通十五日かかるのに六日位で届け、人々は感心すると同時に不思議に思っていたという。ある朝、小田原城下で犬に噛み殺された白狐がいた。その狐の首には酒井家の紋の付いた文箱が付いていた。その後、小浜では八助の姿を見かけなくなった。これは稲荷明神が信仰の篤い忠勝公の治世を白狐を遣わして助けたのだと人々は思い、八助稲荷明神と名付けてお参りを続けてきたという。
-参考・現地説明板-

▲ 小浜神社入口脇に祀られている組屋地蔵尊。 慶長六年、小浜城の築城に際し、城壁の安全護持のために人柱を立てることになり、豪商組屋六郎左衛門が愛娘を献じてその責に任じたのであったが、酒井忠勝公が城主となった時、城代家老の三浦帯刀が蜘蛛手櫓の近くで毎夜女の忍び泣く声がすると聞いて、かの人柱となった娘の話を知り、一体の地蔵尊を造り供養した。これを「組屋地蔵」と号して本丸守護の守りとした。しかし寛文二年(1662)五月の大地震で石垣が崩れ、その修理の際に諸石に混じて行方不明となってしまった。それから数百年後の昭和二十八年(1953)九月の大風水害で崩れた石垣を昭和三十四年に修理中、南隅玉垣の諸石中より行方不明となっていた地蔵尊が見つかった。その後、崇敬者の手によりここに祀られたものである。
−参考・現地説明板-

▲ 小浜城の北側を流れる北川と平行して海へ流れ出ている多田川。現在の流れは河川工事によるもので、北の丸は完全に削り取られてしまった。
----備考----
訪問年月日 2008年10月
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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