和地城
(わじじょう)

                   田原市和地町            


▲ 和地城跡はビニールハウスの建ち並ぶ畑地、または宅地となり、遺構は
残されてない。道路(黄色のセンターライン)の左側に三島神社があり、
右側(南)が旧字「宮の前」と呼ばれる地域で、城址とされる所である。

藩祖戸田尊次、
     若き日の城館跡

 戸田尊次は慶長六年(1601)に田原一万石の初代藩主(田原城)となった徳川譜代の大名である。その後戸田氏は十三代続き、幕末には宇都宮七万七千石の大名として明治に至っている。
 尊次の祖父は戦国期に渥美半島を支配して今川氏と争った田原戸田氏の一族で、四代田原城主康光の弟忠政である。天文十六年(1547)に田原城が今川勢によって落とされ、田原戸田氏は滅んだが、忠政は子忠次とともに落ち延びた。その数年後、織田と今川の戦いがあった鴫原(重原城/知立市)で討死したと言われている。
 尊次の父忠次は忠政討死後、浪々の身となり、やがて佐々木(岡崎市)に住んだと言われる。永禄六年(1563)の三河一向一揆の際に、はじめ一揆方であったが途中で家康に従い、戦功を上げた。翌年の田原城攻めでも活躍して渥美郡大津(高縄城/豊橋市老津)に七百貫(二千石)の地を賜った。
 尊次が生まれたのは永禄八年(1565)大津に於いてであった。大津の高縄城は戦国初期に田原城を築いて東三河を席巻した戸田宗光が最初の足場とした城である。
 天正十二年(1584)、十九歳になった尊次は父忠次とともに小牧・長久手の合戦に出陣した。戦後、忠次には大津に加えてここ和地村五百石が与えられた。
 忠次は新たに得た和地五百石の地に尊次の城館を設けさせた。
 尊次は和地村の大宮之前の河合安右衛門の屋敷地に城館を構えた。これが現在の和地城跡なのである。大宮之前というのは三島神社の前、南側の地を指している。
 尊次は天正十八年(1590)の家康関東移封に際して和地を離れ、父とともに伊豆下田五千石に移った。
 和地の地は戸田尊次が若き日の六年間を送った所である。城址の現況は土地造成や耕地整理などによって遺構は跡形もなく消滅してしまっている。ただ、城址の西を流れる鉄砲川のみがかつての城の堀に利用されていたと伝わるのみである。
 ▲ 三島神社。戸田尊次が城館を構える以前からあった。
▲ 三島神社前の道路から見た字「宮の前」とされる地域の風景。

▲ かつて城館の西側の堀として利用されたという鉄砲川。道の左が川筋であるが雑木に覆われて川面が見えない。
----備考----
画像の撮影時期*2009/10及び12

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