伊奈城
(いなじょう)

            豊川市伊奈町柳        


▲ 伊奈城址。史跡公園として整備され、模擬の物見櫓が古城の雰囲気を漂わせている。

水葵の祝宴

 本多氏といえば徳川家譜代の重臣であり、四天王のひとりに数えられた平八郎忠勝や鬼作左の異名で知られる重次、また家康の謀臣であった正信、正純父子などが著名である。そしてここ伊奈城を居城とした否本多氏も家康の東三河平定に大きく貢献し、後には譜代大名として存続した一族なのである。
 この本多忠勝や重次、正信そして伊奈本多氏も戦国期にはそれぞれの家系は数代を経て別家の観があるが、系譜を遡れば祖先は同じなのである。では、どの家系が嫡流の宗家になるのかとなると諸説あって定かでない。一般的には平八郎忠勝の家系が宗家とされているようだ。
 ここ伊奈郷を攻略して居城を築いたのは彦八郎定忠で享徳の頃(1445-54)といわれている。平八郎忠勝の六代前のひとである。
 その定忠の五代前、山城(京都)の加茂社職であった光秀が故あって豊後国本田郷に移住、その子助秀が本田氏(後に本多氏)を名乗った。助秀の子助定のとき、都落ちした足利尊氏が九州へ上陸した。建武三年(1336)のことである。助定は勢力挽回を図る尊氏を援けた。この時の功が実って助定には尾張国横根郷(大府市)が与えられた。
 助定は横根郷に移り、代を重ねた。助定の後、助政、定通と続いて定忠となる。
 定忠が伊奈郷を襲った経緯についてはよく分からないが、世の乱れに乗じて家名を興そうとしたのだともいわれている。同時期、松平郷に興った松平氏(松平氏館)も近隣を侵して勢力を拡大しており、相通ずるものがあったのかもしれない。定忠の後、定助、正時、正助、正忠と続くが、いずれも松平信光、親忠、清康といった松平家歴代当主と戦陣を同じくしている。
 ちなみに正時の兄弟助時は岩津に移って松平家に仕えた。この家系が平八郎家と呼ばれ、後に忠勝の登場となる。次の代の正助の兄弟信正の家系が作左家と呼ばれ、後に重次が松平家重臣として活躍することになる。
 享禄二年(1529)、三河平定を推し進める松平清康(徳川家康の祖父)は東三河へ進攻して吉田城(豊橋市)へ迫った。伊奈城主本多正忠は姻戚であった吉田城主牧野氏との関係を絶ち、いち早く清康の陣に参じた。そして夜陰に紛れて吉田川を渡り、吉田城の東門を打ち破って城内に突入、松平勢を導き入れたという。
 吉田城を攻略した清康は休む間もなく軍を田原城攻略に向けた。田原城主は四代目戸田宗光であった。宗光は戦わずして清康に降った。宗光は清康の一字を貰い受けて康光と名乗った。
 この田原攻めでは正忠らの本多勢が先導役を果たしたはずである。この後、清康は吉田城へ凱旋して東三河の諸豪族の服従を受けて岡崎に戻るのであるが、田原城から吉田城への凱旋の途次、伊奈城に立ち寄って勝利の祝宴を開いた。その際に正忠は城内の池の水葵(ジュンサイ)の葉に肴を盛って差出したという。清康は喜悦して、
「立葵紋は正忠の家紋なり、此度の戦に正忠最初に味方となりて勝ち戦となる。吉例なり、賜らん」
 と本多家の立葵紋を所望したという。正忠に異論のあろうはずがなく、清康への心服の情が一層深まったに違いない。

▲ 伊奈城址に残る大土塁の遺構。
 この後、立葵紋は松平家の紋となり、家康の代に三ツ葉葵紋となったという。
 破竹の勢いで三河を平定した松平清康であったが、天文四年(1535)の織田信秀攻めで出陣中に守山で家臣に殺されてしまった。「守山崩れ」と呼ばれ、松平氏による三河支配は瓦解して、再び国内は乱れてしまった。
 その後、三河は今川義元の版図となり、正忠は今川方の属将として戦乱の世を戦い続けた。正忠の後、忠俊が城主を継いだ。
 永禄三年(1560)、桶狭間に今川義元が敗死すると、忠俊は子の光忠とともに松平元康(徳川家康)のもとに参じて戦功を重ねた。忠俊の後、光忠は病身であったため弟の忠次が城主となった。
 永禄七年(1564)、光忠と忠次は吉田城攻めを家康に進言、二連木城の戸田重貞を説いて味方にするなどして活躍した。この功により忠次には五千貫の地が与えられた。
 忠次は酒井忠次と陣を同じくして姉川、長篠、高天神城と戦い続け、戦功を重ねた。忠次には子がなく、同陣の酒井忠次の次男を養子(康俊)とした。
 天正十八年(1590)、家康の関東移封により、伊奈本多氏は先祖代々約百五十年間住み続けてきた城を去ることになった。封地は下総国小篠郷五千石であった。伊奈城はその後、廃城となったという。
 関ヶ原合戦(1600)後、康俊は三河西尾城二万石の大名となった。養父忠次は西尾で没した。
 大坂の陣の戦功で近江膳所城三万石を拝領した。康俊の後は俊次が継いだ。俊次は後に加増再封されて七万石の藩主となる。以後十三代膳所藩主として続き、明治を迎えた。
 ▲ 平成6年(1994)の発掘調査で堀跡と堀底に逆茂木が発見された。現在ではその様子が再現されている。
▲ 「生念台跡」。発掘調査の際に火葬人骨や六文銭の束が見つかった。かつてここに葬られた武者を弔い礼拝する場であったようだ。

▲ 城址遠景。周囲は水田地帯で、戦国当時も湿地帯が広がり、それが天然の障害として生かされていた。

▲ 土塁上に建てられた城址碑。

▲ 物見櫓の壁板に掲げられた「葵の紋」発祥ゆかりの地の説明板。

▲ 「花ヶ池公園」。伊奈城址の北東200bの所にある。本多正忠が祝宴の際に城内の池の水葵の葉に肴を盛って松平清康に差出した。ここはその池といわれており、町の史跡に指定されている。
----備考----
画像の撮影時期*2009/07

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