丸子城
(まりこじょう)

            静岡県静岡市駿河区丸子         


▲丸子城は駿府西方を守る城として今川氏によって築かれたとされるが、
明確なことは分らない。永禄11年(1568)に駿河へ進出した武田氏によって
本格的な山城に改築されたが、その真価を発揮することなく廃城となった。。
(写真・丸子城本曲輪千畳敷。)

武田流山城要塞

 文明八年(1476)、今川義忠が遠州塩買坂で横地・勝間田の残党に襲われて落命した。義忠の嫡男龍王丸(氏親)は幼少であったため今川家中は家督をめぐって小鹿(今川)範満擁立派と真っ二つに分かれてしまった。そこで龍王丸派の伊勢新九郎(後の北条早雲)が奔走して龍王丸成人までは範満が代行するということで内紛を収めたということがあった。

 この時、龍王丸と母北川殿が雌伏先として居所としたのが今川重臣斎藤加賀守安元の居館のあった泉ヶ谷であった。丸子城はこの泉ヶ谷を抱える山上に築かれた山城であるところから斎藤氏の創築になるものと見られている。しかし、史料的にこれを明らかにすることはできないようなので、およそ十五世紀後半に今川氏によって城砦化されたものとするほかないようである。

 他にも今川範忠時代(家督・永享五年/1433-寛正二年/1461)に福島佐渡守基正が高天神城と丸子城を兼務したと言われ、または今川義忠(家督・寛正二年/1461-文明八年/1476)が家臣河野織部に丸子城を築かせたとも言われているが、いずれも伝承の域をでないようである。永禄三年(1560)「今川分限帳」には駿州丸子城主福島安房守三万五千石とあるが、これも当時の貫高表現ではないので何とも言えない。

 永禄十一年(1568)十二月、甲斐の武田信玄が駿河に進攻、駿府を焼き払って今川氏真を敗走させた。

 丸子城が本格的な山城要塞として生まれ変わるのはこの時からで、年が明けると信玄は山県三郎兵衛昌景に二千五百人を付けて丸子城を改築させたのである。西側を防衛正面と見立てた長大な土塁と横堀は見事なもので、尾根上に連なる各曲輪も西側にのみ土塁が築かれている。

 永禄十二年(1569)の暮れからは屋代越中守勝長、関甚五兵衛らが在番となって駿河表の守備に就いた。天正八年(1580)には武田勝頼の指示で小幡氏や内藤氏の兵が加えられたようである。

 浜松城の徳川家康による対武田攻勢は天正七年(1579)頃より激しくなり、丸子城の南東約4kmの駿河湾に臨む持舟城が攻撃されている。

 天正九年(1581)になると遠州高天神城が七年に及ぶ戦いの後に落城してしまった。高天神城の落城は駿河の武田方にとっては大きな痛手となり、翌天正十年(1582)の織田・徳川による甲州攻めを可能にした一大事でもあった。

 天正十年二月、満を持して織田勢が甲州攻めに動きだした。家康も駿河路から甲州へと兵を進める段取りで浜松城を出陣した。進撃路にある武田方の諸城のほとんどは戦わずして敗走、次々と落城してしまった。終には駿河を任されていた江尻城の穴山信君(梅雪)が家康に降伏してしまった。

 丸子城を守備していた屋代越中守らは穴山梅雪の謀反を知り、城を捨てて甲州へ落ちたと伝えられている。


▲大手曲輪に入る土橋。

▲東側から見た丸子城の遠景。
 ▲登城口となる丸子稲荷神社。
▲稲荷神社の右手が登城路の出発点となる。

▲丸子稲荷神社から急な登城路を登りきると同神社の奥宮が祀られている。

▲奥宮の所に立てられた縄張図。

▲稲荷神社奥宮から大手曲輪に至る平坦地は兵員を収容する駐屯地と呼ばれている。

▲大手曲輪へ向かう。

▲大手曲輪の北から東側にかけてL字形に横堀が掘られている。三日月堀と呼ばれている。

▲大手曲輪。丸子城東端に位置する。

▲北曲輪。北側と西側に土塁がある。

▲丸子城の見どころのひとつである長大な横堀であるが、草木に覆われていてその迫力が伝わらないのが残念である。

▲北曲輪西側横堀の外側に設けられた堡塁。

▲二の曲輪。

▲二の曲輪と本曲輪を隔てる堀切。

▲本曲輪北側の枡形虎口。

▲本曲輪。最も広い曲輪から千畳敷と呼ばれている。

▲本曲輪に立てられた見取り図。

▲丸子城西麓にある誓願寺。

▲誓願寺の片桐且元公夫妻の墓。
----備考----
訪問年月日 2014年9月6日
主要参考資料 「静岡県の城跡」静岡古城研究会
「静岡の山城ベスト50を歩く」
「戦国のロマンを訪ねて丸子城址をあるく」他

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