深沢城
(ふかざわじょう)

            静岡県御殿場市深沢         


▲深沢城は甲・相・駿の境目城として武田、後北条の両軍によって
再三にわたり争奪戦が繰り返された要衝の城である。城攻めの際に
武田信玄が開城勧告の矢文を射込んだことでも有名である。
(写真・三の丸南側城址入口に建つ城址碑と説明板。)

信玄、矢文にて開城を迫る

 戦国期、甲・相・駿(甲斐、相模、駿河)の三国を結ぶ街道の要所に位置するこの深沢城は境目の城として重要視され、甲斐の武田氏と相模の後北条氏によって争奪戦が繰り返された。
 この城がいつ、誰の手によって築かれたのかは不明とされているが、永正十一年(1514)に今川氏親が甲斐の大井氏支援のために葛山氏、庵原氏、朝比奈氏を出兵させた際に築城されたのではないかと見られているようだ。築城以前、ここには土豪深沢氏の居館があったとも言われている。
 永禄十一年(1568)十二月、甲斐の武田信玄が甲・相・駿三国同盟を破棄して駿河進攻に踏み切った。今川氏真は駿府を脱して遠州掛川城に逃げ込んだ。これに対して相模の北条氏康、氏政父子は今川氏真救援のために出兵、薩垂山以東(駿河東部)を席巻して武田勢を退却せしめた。
 深沢城が城としての存在を明確にするのはこの時で、翌十二年(1569)には甲斐からの街道を押えるために城郭として整備したのである。
 この年六月にははやくも信玄が籠坂峠(東富士国道138号)を越えて深沢城に迫り、攻囲した。武田勢の猛攻の前に年明け早々には落城して信玄は駒井昌直を城将として兵を駐屯させた。
 後北条氏側も直ちに三万八千の大軍を送り込んで攻防二ヵ月の末(四月)に奪還した。城将には猛将として知られる北条綱成を入れ、松田憲秀を添えて守りを固めた。
 この年元亀元年(1570)十二月、信玄は富士口から進攻して興国寺城を押えると再び深沢城に迫った。信玄は中山金山の金掘衆を使って城を掘り崩させるなどして激しく攻め立てたという。城将の北条綱成も頑強に抵抗して城は容易に落ちなかった。
 年が明けて元亀二年(1571)の正月三日、信玄は開城勧告の文書を矢に結んで城中に射込んだ。これが「深沢城矢文」として知られるものである。「地黄八幡」の猛将で鳴る北条綱成も徐々に攻囲を狭められ、援軍の期待も持たれずとあっては仕方なく、十六日に至ってついに開城撤退の意を決した。

 再び武田方の城となった深沢城には前城将であった駒井昌直が入城して守りを固めた。その後、度々後北条方の攻撃を受けたがこれを退けている。
 城も武田流の城として整備され、現在見られる遺構はこの時のものである。
 天正の時代(1573〜)になると信玄は没して勝頼が武田家を継ぎ、やがて織田信長との対決を迎えるに至る。
 天正十年(1582)、信長は徳川家康と連合して甲州征伐の大軍を発し、田野(甲州市/景徳院)に勝頼主従を滅ぼした。深沢城将の駒井昌直は城に放火して退去、後に武田遺臣を率いて徳川家康に降った。
 天正十二年(1584)、羽柴秀吉と対する(小牧・長久手合戦)ことになった家康は背後の後北条氏の押えのため、深沢城に三宅康貞を入れた。
 天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻めで関東の雄後北条氏は潰えた。境目の城として争奪の的となった深沢城もその役割を終え、廃城となったと見られている。


▲三の丸西側の三日月堀。
 ▲三の丸南端の道路沿いに建つ城址碑。
▲説明板の城址図。

▲城址碑の裏に残る三日月堀。

▲三の丸東に設けられた馬出し。

▲三の丸東南の堀跡。

▲三の丸。

▲下馬溜り。二の丸と三の丸間の馬出しとなる。

▲二の丸。三つの曲輪のうち最高所にあたることから現在はこちらが本丸と見られている。

▲本丸。北端の曲輪で最大の広さを持つが二の丸より低い位置にあり、現在では三の丸にあたると見られている。

▲本丸西端の城櫓跡。

▲本丸西側を湾曲して流れる馬伏川。

▲本丸と二の丸間の土橋。

▲食糧庫跡。

▲二鶴様式の堀跡。

▲三の丸の八幡宮。
----備考----
訪問年月日 2014年6月21日
主要参考資料 「静岡県の城跡」静岡古城研究会
「静岡の山城ベスト50を歩く」他

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