井伊谷陣屋
(いいのやじんや)

              浜松市北区引佐町井伊谷      


▲井伊谷陣屋は井伊谷の地と旗本の地位にこだわり続けた近藤秀用がみずから検分して
普請したものである。秀用の後は四男用義が継ぎ、井伊谷近藤氏の陣屋として続いた。
(写真・西側から見た陣屋跡。コーポの建つ位置が陣屋跡地となる。)

旗本にこだわった近藤氏の陣屋

 戦国期、東三河の宇利城(愛知県新城市)主近藤石見守康用は近郷の土豪らと同じく駿河・遠江・三河の三国を支配する今川義元に属していた。ところが桶狭間の一戦(永禄三年/1560)で織田信長に敗れ、討死してしまった。その後今川氏の勢威は衰退の一途をたどり、やがて三河を平定した徳川家康の遠江進攻を許すに至ってしまう。
 永禄十一年(1568)十一月、家康の遠江進攻が開始された。この時、徳川勢の先導役を担ったのが近藤康用らであったのだ。野田城主菅沼定盈の奔走によって山吉田(柿本城)の鈴木氏、遠江都田(浜松市北区)の菅沼氏と共に今川を見限り家康の麾下に加わったのである。
 その後、康用は子の秀用とともに家康、そして井伊直政の麾下に属して各地を転戦して武功を重ねた。康用没(天正十六年/1588)後、秀用は家康の関東移封を期に井伊家を致仕して浪々の身となった。旗本に戻りたかったのだが井伊直政の許しが得られなかったからである。
 慶長七年(1602)、井伊直政が関ヶ原合戦の疵がもとで没すると秀用は徳川秀忠に召し出されて五千石を賜わった。徳川家も井伊直政に遠慮していたのであろうか、直政没後には家康も秀用への勘気を解いている。
 その後、慶長十九年(1614)には一万石が加増されて大名に列した。元和五年(1619)、秀用は幕府に井伊谷とその周辺に領地替えを願い出て許された。
 この年九月、秀用は陣屋の普請のために江戸を離れて遠江に入った。二十九日に井伊谷入りした秀用は四男彦九郎用義を連れてかつての井伊城(館)跡に足を運び、ここ三の丸跡を陣屋の地と定めた。江戸へ戻った秀用は翌元和六年(1620)に家老磯部源五郎に命じて陣屋の普請を開始させ、次男用可(気賀近藤祖)も一時的に井伊谷入りして普請の指示にあたっている。

 元和八年(1622)、新領地一万五千石の村々から人夫が動員されて始まった陣屋普請もこの年に完成した。陣屋の大手赤門には鉄製の鹿の角の紋が打たれていたと言われている。
 秀用は陣屋普請を始めた年に嫡孫貞用(金指近藤氏)と次男用可に合わせて八千石余を分知して諸侯の列から離れた。旗本の地位に誇りをもっていたのであろうか。
 寛永八年(1631)、秀用は波乱の生涯を終えた。八十五歳であった。遺領は子等に分知されて近藤氏五家が成立した。井伊谷近藤氏五千四百五十石、金指近藤氏五千四百五十石、気賀近藤氏三千九百石、大谷近藤氏三千石、花平近藤氏三百二十石がそれで、五近藤と呼ばれた。
 秀用自らが検分して普請された井伊谷陣屋は四男用義が継ぎ、代々引き継がれて明治に至った。


▲下写真の黄丸の部分を拡大。井伊城三ノ丸跡に陣屋が建てられたことが分かる。「近藤彦九郎御陣屋」とあるのがそれである。

▲北東側から見た陣屋跡(コーポが二棟建っている)。

▲引佐町4区公民館前に立つ「井伊氏居館跡」の説明板。

▲説明板の「井伊城御旧跡ノ図」。
----備考---- 
訪問年月日 2014年9月28日 
 主要参考資料 「引佐町史 上巻」他

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