かなさしこんどうじんや
(かなさしこんどうじんや)

                   浜松市北区引佐町金指        


▲ 現在、陣屋跡地は民家、畑地となっている。画像中央部の果樹園
とその周辺部が陣屋跡である。遠景の台地は三方原台地である。

武士道に
     生きる

 徳川家康の遠州入りの先導役となった井伊谷三人衆のひとり近藤康用は子の秀用とともに家康のもとで活躍、井伊谷一帯に所領を賜った。秀用の子季用、用可、用義はそれぞれ金指、気賀井伊谷に独立した。ここ金指近藤家の初代となったのは季用で、小田原、関ヶ原の戦いに出陣して戦功をたてているが、慶長十七年(1612)に四十歳で病没してしまった。
 二代貞用は慶長十一年生まれで、若年の頃は江戸在住であった。世が泰平となり落ち着くと江戸市中では旗本の子弟の横暴が目立つようになり、白鞘組の水野十郎左衛門や幡髄院長兵衛などが住民を困らせていた。貞用はこうした状況を憂え、大久保彦左衛門らとともに彼らに武の道を説き、江戸の民衆から喝采を得ている。
 当然、貞用の領地経営にも善政ぶりが窺える。住民同士の境界争いにも自ら検分に赴いて解決するなどしている。また絵画や詩文などの江戸分化をもたらすなどしている。
 近藤家の菩提寺である初山宝林寺は中国から独潭禅師を招いて創建したもので、遠州地方に初めて黄檗禅をもたらしたことでも知られている。
 そして延宝七年(1679)八月、十年十ヶ月の歳月を費やして五千四百五十石の陣屋が完成した。この場所が現在の陣屋跡である。以後、明治五年まで公務を司っていた。
 陣屋の広さはおよそ百間四方といわれ、現在でも北側に土塁の遺構が東西に残っている。
土塁遺構
▲ 土塁遺構。
宝林寺
▲ 初山宝林寺の仏殿。
近藤家墓所
▲ 近藤家累代の墓塔。
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画像の撮影時期*2005/02