柿本城
(かきもとじょう)

                   新城市下吉田           


▲ 本丸跡の城址碑。「鈴木長門守重勝之城址」と刻まれている。重勝は隠居後も重好とともに
井伊家に従い、家康の関東移封にともなって上野国に移り、長命して九十三歳で没した。

生と死の選択

 下吉田城とも呼ばれるこの城は天文初年(1532)頃、吉田郷に土着した三河足助鈴木氏の裔、鈴木長門守重勝の嫡重時が築いた山砦である。
 鈴木氏の本城は重勝の築いた白倉城(上吉田)である。永禄十一年(1568)の徳川家康による遠江進攻の際にはその先導役として重勝と重時は父子で協力した。後に井伊谷三人衆として近藤康用(宇利城)、菅沼定久(都田)とともに並び称されることになる。
 遠江入りして引馬城(浜松市)を手中にした家康は背後を固めるために、三人衆に対して三河から井伊谷(浜松市引佐)に至る街道筋の下吉田に築城を命じたのである。無論、鈴木氏の領内であるから重時が主となって働いたと思われる。
 ところが重時は翌永禄十二年の遠江堀江城の戦いで城兵の鉄砲に撃たれ、討死してしまった。二月五日、四十二歳であった。

▲ 二の丸跡。
 重時の後を継いだのは嫡子重好で、この時十二歳であった。
 元亀三年(1572)、武田信玄による遠江進攻が開始され本軍は二俣城を囲んだ。一方、信濃から三河路を南下した山県昌景率いる五千余の別隊がここ柿本城へ押し寄せてきた。山県勢は二俣城攻囲の信玄本軍に合流しようとしていたのである。
 この当時、柿本城には十四歳になった当主重好とそれを補佐する伯父鈴木権蔵重俊、そして三人衆から近藤石見守秀用、井伊飛騨守らがそれぞれ手勢を率いて守っていた。
 しかし多勢に無勢、しかも城は仮の柵で固めただけの簡素なものであったから、勝敗は戦う前から判っている。城を枕に討死するか、後図を期して落ち延びるのか。
 補佐役の権蔵重俊は迷ったに違いない。
「家を絶やしてはならない」
 権蔵は意を決すると尾根伝いに麓の満光寺に走り、和尚に武田の陣へ使いして時間を稼ぐように依頼したと思われる。諸書には和尚の和議斡旋により開城と記されている。
 ともかく城の脱出に成功した重好と権蔵らは浜松城の家康のもとへ向かって一路井伊谷への道を急いだ。この夜はその途中、権蔵の兄弟の守る伊平城(小屋山城)へ入った。
 しかし、城主の逃走を知った山県勢の追跡は素早かった。伊平城は夜討され、城方は防戦しつつ城を脱した。この戦闘で鈴木権蔵は銃弾に倒れ、井伊飛騨守とともに討死した。主家の将来を身をもって守った最期といえよう。
 その後、重好は井伊直政に仕えて数々の戦功をあげた。
 元和四年(1618)、鈴木家は水戸徳川家の御付家老となり五千石を賜った。以後代々水戸藩の家老をつとめて明治を迎えた。幕末、水戸天狗党の争乱に関連して当主重棟が斬罪となるなどして断絶の危機に瀕したが、その後再興されて現在に至っている。

 ▲ 城址南側からの望見。

▲ 城址東麓にある満光寺。重勝の開基による禅刹である。ここの和尚が開城のために山県昌景の軍営に単身乗り込んだ。
----備考----
画像の撮影時期*2007/01

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