仏坂古戦場
(ほとけざかこせんじょう)

                    浜松市北区引佐町井平           


▲仏坂古戦場は三河から遠江へ至る鳳来寺街道の山間部にある。
元亀三年、武田信玄の別動隊として三河から遠江へ進撃した山県
昌景隊を徳川方の鈴木氏や井平氏が迎え撃った戦いの地である。
(写真・仏坂古戦場の山間の道)

山間の古戦場    

 永禄十一年(1568)十二月、徳川家康は遠江への討入りを開始した。その先導役となったのが井伊谷三人衆と呼ばれた鈴木重時、近藤康用、菅沼定久である。井伊谷を経て引馬城(浜松市)を落とした家康は三河と遠江の道筋を確保するために鈴木重時ら三人衆に対して鳳来寺街道を扼する下吉田(新城市)に築城を命じた。

下吉田の城が完成すると鈴木氏の領内であったことから鈴木重勝(隠居)、重時父子がそれまでの白倉城から当城に移って入城した。柿本城とも呼ばれる城がそれである。重時は翌年、浜名湖岸の堀江城の戦いで戦死、四十二歳であった。後を十二歳の嫡男重好が継いだ。

武田信玄と徳川家康の遠江における抗争が頂点に達したのは元亀三年(1572)である。この時、信玄は信濃と遠江の国境青崩峠を越えて天竜川沿いに怒涛の勢いで南下、北遠・中遠の諸城を制圧して二俣城(浜松市天竜区)を攻囲した。一方、山県昌景率いる五千の別動隊が三河路を南下、鳳来寺街道から遠江に入り、二俣城攻囲の本軍に合流しようとしていた。

鳳来寺街道に入った山県隊は柿本城を一息に揉み潰そうと攻めかかった。柿本城には当主鈴木重好、補佐役で叔父の鈴木権蔵重俊、援将として近藤石見守秀用、井平城主井平飛騨守直成らが防備を固めていた。

柿本城は本丸は塗塀で囲んでいたが、二の丸は仮の柵でしかなかった。落城は時間の問題であった。補佐役の鈴木権蔵は「城を脱して浜松に赴き、徳川殿の下で再起を期するべき」と判断した。鈴木権蔵は城に隣接する満光寺の朝堂玄賀和尚を仲介に立てて山県昌景と交渉、開城退去を申し出た。十月二十二日のことであった。

城を退去した鈴木重好らは鳳来寺街道を駆けに駆けて遠江に入り、この日は重好の叔父(鈴木権蔵の兄弟)鈴木出雲守が守る井平城に入った。井平城も鳳来寺街道を扼する山上にあったが、三河方面から尾根伝いに攻め寄せられると無防備に等しい立地にあった。

山県勢の急追を知った鈴木権蔵重俊はおそらく近藤秀用に重好を託して浜松城へ走らせたものと思われる。その後、鈴木権蔵は井平城主井平飛騨守直成ら城兵とともに山県勢を迎え撃つために城を出て街道の仏坂に潜んだ。浜松へ向かった重好らの逃走を援護するためであることは言うまでもない。

山間の日暮れは早い。あたりが暗闇に包まれる頃、松明をかざして街道を進む山県勢が現れた。鈴木権蔵と井平飛騨守らの一隊は山県勢の進路を阻む形でその隊列に喊声とともに斬り込んだ。

山間に銃声と喚声がこだました。鈴木権蔵と井平飛騨守は鉄砲にあたり即死、八十八人の将士が討死して戦いは終わった。三方ヶ原合戦の前哨戦とされる仏坂の戦いである。

戦後、鈴木重好は家康の命により井伊直政に仕えて戦功を重ねた。家康の関東移封にも従い、元和四年(1618)には水戸徳川家(水戸城)の御付家老となり、代々水戸藩の家老として幕末に至った。


▲仏坂古戦場の史跡標柱。

▲仏坂の戦いで討死した将士八十八人が葬られたという「ふろんぼ様」。

▲国道257から林道を400mほど行くと古戦場跡訪問者用の駐車スペースが確保されている。

▲駐車スペースに掲げられている仏坂の戦い絵。

▲同じく案内図。

▲駐車スペースからは徒歩で矢印の方向へ向かう。

▲歩き始めて五分ほどで「ふろんぼ様」に到着する。

▲「ふろんぼ様」と呼ばれる戦死者を葬ったという墓塔群。

▲「ふろんぼ様」の説明板。

▲同じく説明板。

▲「ふろんぼ様」から少し進んだ仏坂古戦場跡の山間の道。

▲説明板。

▲古戦場跡の標柱。

▲古戦場跡近くにあった「獅子岩」。

----備考----
訪問年月日 2020年11月14日
主要参考資料 「井伊谷三人衆」他

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