水戸城
(みとじょう)

:県指定史跡(空堀、土塁)・国指定特別史跡(旧弘道館)・百名城

            茨城県水戸市三の丸       


▲水戸城は当初、馬場氏の城館が築かれたことから馬場城と呼ばれた。戦国期に江戸氏の
城となってから水戸城と呼ばれるようになる。江戸氏の後、常陸国の大名となった佐竹氏の
居城となり、関ケ原後は徳川氏の城となった。以後、水戸徳川家の城として明治に至った。
(写真・三之丸(現・県庁舎)西側の空堀。)

覇者たちの城から御三家の城へ

 鎌倉初期、平将門の伯父国香の子孫で吉田郡の豪族石川次郎家幹の次男である馬場小次郎資幹(すけもと)が当地に城館を築いたことにより水戸城の歴史が始まる。ただし、水戸の名が使われるようになるのはまだ後のことである。それまでは一般的には馬場城と呼ばれる。

 馬場資幹に建久四年(1193)、常陸守護八田知家によって失脚させられた多気義幹の所領(筑波郡、南郡、北郡)と常陸大掾職が与えられ、以後は馬場大掾氏と称されるようになった。建保二年(1214)に常陸府中の地頭支配権を得た資幹は府中石岡に城館を築き、そちらを居城としたため、馬場城は支城的存在となった。また、馬場大掾氏は公家の職務も兼任するということで公家武家兼帯衆と称されている。

 応永七年(1400)、初代資幹の九代目満幹(みつもと)が馬場城を修築したことが伝えられている程度で、依然として馬場大掾氏の本拠は府中にあったようである。応永二十三年(1416)の上杉禅秀の乱の際には満幹は禅秀方(敗亡)に付いたために常陸における勢いは衰退して行くことになり、鎌倉公方方の佐竹氏や江戸氏が勢いを増すことになる。

 応永三十三年(1416)六月、河和田城(馬場城(水戸城)の西約6km)を本拠としていた江戸但馬守通房が馬場城を奪取して本拠とする。奪取の経緯は諸説あるが、江戸通房はかねてより大掾氏の馬場城を狙っていたいたようで、府中石岡の祭事で満幹が城を留守にした隙を衝いて襲ったとされている。水戸城としての名が出てくるのはこの江戸氏時代からである。その後、馬場大掾氏の力は衰え、永享元年(1429)には鎌倉公方勢に攻められて満幹は滅ぼされてしまった。水戸城は通房以後七代百六十余年間、江戸氏の本拠地として領地支配の中心となり続けたが、どの程度の規模であったのか判然としないようで、城下町の発展もなかったようである。

 時代は移ろい、やがて常陸北部の佐竹氏が勢いを増してくる。天正十八年(1590)、佐竹義宣は豊臣秀吉の小田原攻め(小田原城)に参陣して常陸・他二十一万六千七百五十八貫文の領地の安堵を受け、常陸の旗頭としての地位を誇示した。

 小田原の陣後、佐竹氏の常陸平定が進められ、江戸重通に対しても水戸城の明け渡しが要求された。重通はこれを拒否、佐竹勢の攻撃を受けることになる。

 水戸城攻城時、佐竹義宣は上洛中であったため、父義重が指揮を執ってわずか二日の戦いで江戸重通を追い落として奪取に成功した。城を落ちた重通は姻戚の結城氏を頼ったと言われている。

 水戸城落城後、義宣は従四位下、侍従、右京大夫に補任され翌天正十九年(1591)には秀吉から羽柴姓を授けられ、羽柴常陸侍従と呼ばれるようになって水戸城に入城を果たした。その後の太閤検地の結果、文禄四年(1595)には五十四万五千八百石の朱印を受けて豊臣政権の有力大名の地位を確立した。水戸城の大改修も実施され、三之丸が増築されている。

 慶長五年(1600)、関ケ原合戦の年である。義宣はかねてより石田三成や上杉氏とは懇意であったようで、自身の東軍への参陣は見送っていた。このためか、慶長七年(1602)五月になって突如領地没収と転封の上意が伝えられたのである。

 伏見の佐竹邸に居た義宣は出羽転封の沙汰を受け、水戸城に立ち寄ることも許されずに秋田へ向かった。義宣は秋田郡久保田に城を築いて居城とし、久保田(秋田)藩二十万五千八百石の初代藩主に落ち着いた。

 一方、水戸城は花房道兼や島田利正らが六月に城受け取りに到着して佐竹領の接収が実施された。多少の反乱はあったものの鎮圧され、この年十一月には家康五男の武田信吉が十五万石で封ぜられた。しかし、信吉はわずか一年後に二十一歳の若さで病没してしまう。

 慶長八年(1603)、家康十男頼将(頼宣)が二十万石(後に二十五万石)で封ぜられる。

 慶長十四年(1609)、頼将が紀州転封となり、家康十一男の徳川頼房が水戸二十五万石に封ぜられた。わずか七歳である。初の御国入りは元和五年(1619)、十七歳の時であった。

 寛永二年(1625)から水戸城の大改修が実施され寛永十五年(1638)頃に完了したと言われている。石垣化の計画も進められたが実現せずに終わっており、徳川御三家の城としては唯一の土の城である。

 以後、水戸徳川家は頼房を初代として二百六十余年十一代昭武まで続いて廃藩となる。


旧水戸城薬医門。水戸城唯一の現存建造物である。本丸の表門である橋詰門と考えられ、廃城後城外に移設されていたが昭和56年(1981)に現在地(水戸第一高校/旧本丸)に移築・復元された。太く頑丈な木割や形状から佐竹氏時代のものとされている

▲石垣化されることなく土の城として明治を迎えた。

▲本丸跡に移築復元された薬医門。

▲本丸跡は水戸第一高校の敷地となっているが薬医門の見学者は入口の駐車スペースを利用することができる。

▲駐車スペース背後は本丸西側の土塁が巡っている。

▲高校入口に立てられた水戸城の説明板。

▲高校入口に架かる本城橋。

▲本城橋は本丸と二之丸の堀切に架かっている。掘底はJR水郡線が通っている。

▲二之丸は御殿の建っていた曲輪であったが現在では小中学校や高校が立ち並ぶ区域となっている。旧彰考館跡には水戸市立第二中学校が建ち、その門前には史跡碑が建てられている。

▲彰考館跡に建つ「大日本史編纂之地」碑。明暦3年(1657)、二代藩主徳川光圀の志によって編集が始められ、寛文12年(1672)にその編集所を彰考館と名付けたという。彰考とは「歴史をはっきりさせて、これからの人の歩む道を考える」という意味らしい。

▲二之丸から三之丸に向かう道沿いには石碑や銅像が建てられている。

▲「茨城百景・弘道館と水戸城址」の碑。

▲御製碑。「たのもしく よはあけそめぬ 水戸の町 うつつちおとも たかくきこえて」昭和天皇が終戦直後に水戸を訪れた際の御製で復興が進む水戸市街の様子を見渡されて詠まれたものと説明されている。

▲二之丸西側土塁前に建つ初代藩主「徳川頼房公」の像。

▲二之丸と三之丸に架かる大手橋。

▲この大手橋も巨大堀切を跨いでいる。堀底は県道232号線の道路となっている。

▲大手橋西側に建つ九代藩主「徳川斉昭公」の像。藩校「弘道館」の創設者である。

▲国指定特別史跡となっている旧弘道館の碑と正門。

▲弘道館は三之丸に建てられている。写真は玄関である。

▲玄関のすぐ奥は諸役会所の広間で、床の間には「尊攘」と大書された掛け軸がかかっている。幕末の尊王攘夷思想の原点がここ弘道館であった。

▲弘道館北側の文館跡を散策しながら西へ向かう。

▲弘道館西側には孔子廟、鹿島神社などがある。これは学生警鐘と呼ばれるもので、学生に時を告げたり用事のあるときに鳴らされたという。斉昭公(烈公)自鋳の鐘と言われている。

▲茨城県三の丸庁舎。旧三之丸にはこの他に県立図書館や水戸警察署などの建物が建っている。

▲県庁舎の西側に目を移すと土塁が現れる。

▲土塁の反対側は空堀である。

▲城としての遺構を色濃く残す空堀は約220mほどになる。

▲県立図書館。

▲最南端部分の堀跡。堀の向こうの建物は警察署である。

▲堀の反対側の土塁。

----備考----
訪問年月日 2015年5月2日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「水戸城本丸史談」他

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