井平城
(いだいらじょう)

                   浜松市北区引佐町伊平        


▲井平城は井伊氏の分家井平氏の居城で南北朝期にはその存在が知ら
れている。戦国期には当地を小屋と呼び、当城も小屋山城とも呼ばれている。
(写真・本丸跡の城址碑)

武田軍の急追に斃れ
         草木の露と消ゆ

 元亀三年(1572)、武田信玄率いる大軍が青崩峠から遠江へなだれ込んだ。

 徳川家康によって平定されつつあった遠江も武田の勢威には抗することもできず、その進撃路にある城は次々と落とされて瞬く間に武田の版図に加えられていった。

 これとは別に三河路を進んだ別働隊があった。率いるは武田二十四将のなかでも猛将として知られる山県三郎右兵衛尉昌景である。率いる兵は五千余である。すでに武田の版図となっている現在の鳳来町まで進出した山県隊は方向を転じて井伊谷に抜ける街道へと駒を進めた。ここから三遠国境を突破して二俣城を攻囲中の本軍へ合流するためである。

 国境の手前、下吉田に柿本城という小砦がある。この方面に於ける徳川方と武田方との最初の衝突の場となった城である。

 柿本城主は鈴木重好十四歳、補佐役は伯父の鈴木権蔵重俊、援将は近藤石見守秀用、井平城主井平飛騨守直成(なおなり)らであった。彼らはこの小城で防戦討死するよりは家康のもとで奮戦する道を選び、満光寺住職の仲介によって城を明け渡し退去することにしたのである。

 城主以下城兵らは直ちに国境を越えて街道をひた走りに走り、この日は井伊谷の手前、ここ井平城に入った。十月二十二日のことであった。井平城には重好の伯父鈴木出雲守が先着していた。

 井平城主である井平氏は井伊家七代弥直(みつなお)の時に四郎左衛門直時が分家して井平氏の祖となり、南北朝期には左衛門二郎重直・掃部左衛門直勝が城を守っていたらしい。戦国期には井伊氏を支える有力者であり、井伊直虎の曾祖母や祖母は当地の生まれである。

 井平城は鳳来寺街道を扼する山上に築かれていたが尾根続きの裏手からの防御は無きに等しかった。鈴木重好らと共に居城へ戻った井平直成は城を捨て、仏坂で山県勢を迎え撃つことにした。

 戦いは熾烈を極め、井平直成以下八十八人の家臣と鈴木権蔵らが討死して全滅した。権蔵の家臣乗松次大夫は直成や権蔵らの遺骸を仏坂(ふろんぼ様)に葬り、甲、頬当、脇差を持って退いたという。鈴木重好らは不眠不休で浜松城を目指した。その後重好は井伊直政に所属して戦功を重ね、晩年は水戸藩の御付家老に栄進した。

 その後、三方原の合戦を経て山県隊は井平で越年することとなった。近藤石見とその臣長瀬与兵衛は井平の山間に潜み、敵兵六人を討ち取って山県隊を混乱させている。この時、近藤は敵兵の郷民への詮議を和らげるために矢文で所為を伝えたという。

 井平落城の翌年(天正元年/1573)、井伊直平の末子直種が井平家を継いだ。直種の嫡男弥三郎は井伊直政の家臣として天正十八年(1590)の小田原城攻めに参陣、十八歳の若さで討死、再び井平氏は断絶してしまった。

▲見学コースはまずこの土塁から始まる。

▲竪堀と竪土塁。

▲城山の麓にある井平氏居館跡。井平城の一の木戸付近に位置している。天正18年、井伊直種の居館にして殿村館と呼ばれた。

▲井平城の俯瞰図。旧鳳来寺街道を扼する要衝であった。

▲登城口。車でも本丸手前まで行ける。

▲林道を抜けると正面に住宅が見える。本丸跡である。見学はその手前の説明板のところから開始である。

▲地形図。

▲説明板。

▲説明板のところから見学コースが設定されている。まずは土塁に沿って下る。

▲遺構部分は竹林の中にある。

▲曲輪。

▲切岸。

▲竪堀。

▲土塁。

▲本丸跡(私有地の庭先)に建つ城址碑。かつては木の標柱だった。

▲説明板の向かいには2〜3台分の駐車スペースが確保されていた。

▲井平氏の墓入口。井平直種夫妻と弥三郎の墓がある。

▲井平氏の墓。武田の山県勢の攻撃によって落城、井平氏も滅びたが、その後井伊直平の末子直種が継いで井平氏を復興した。しかし直種の嫡男弥三郎は小田原攻めに参戦して討死、井平氏は再び断絶してしまった。

城址の北方約1`の所にある井伊飛騨守と鈴木権蔵らの墓塔群。土地では「ふろんぼ様」と呼んで大切にされている。(2004)

▲ふろんぼ様の説明板。(2004)

----備考----
訪問年月日 2004年9月26日
再訪年月日 2020年5月18日
主要参考資料 「井伊谷三人衆」他

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