川中島古戦場 八幡原
(かわなかじまこせんじょう)
(はちまんはら)

                  長野県長野市小島田町           


▲ 言わずと知れた信玄と謙信の一騎打ちの像。両雄の一騎打ちは、江戸時代後期に川中島地方で書か
れた著者不明の戦記物語「甲越信戦録」に描かれている。この銅像は昭和54年、八幡社前に建てられた。

両雄激突、川中島八幡原

 上杉謙信が春日山城を出陣して信濃に入り、海津城(松代城)を横目に通り過ぎて妻女山に布陣したのは永禄四年(1561)の八月十六日であった。海津城の高坂弾正昌信からの急報(狼煙)によって武田信玄もその二日後には甲府(躑躅ヶ崎館)を出陣した。

 それまで幾度も川中島では信玄と謙信は争ってきたが、いずれも雌雄を決するまでには至らなかった。しかし今回、謙信の決戦への覚悟は固かった。それは自らの退路をさらけ出して妻女山に布陣したことでもわかる。

 信玄が川中島に到着したのは二十四日で、川中島西部の茶臼山に陣取った。総勢二万である。上杉勢の退路を断った布陣となり、妻女山の上杉勢はまず兵糧に困ることになるはずであった。

 ところが六日経っても謙信は動かなかった。武田勢は、このまま野陣を張り続けて万が一越後の援軍が国許から現れた場合、腹背に敵を迎えることになる。そう憂慮したのであろうか、信玄は全軍に海津城入りを命じたのである。

 さらに十日が経過した。妻女山の謙信に動く気配はない。信玄がこの局面を打開するために採用した方策が山本勘助の提唱した「啄木鳥の戦法」であったのだ。兵を二分して一万二千を妻女山に向けて出撃させ、背後から上杉陣を襲わせるのである。この奇襲を受けた上杉勢はいやでも川中島へ逃げださざるをえない。この上杉の敗軍を残り八千の軍で捕捉殲滅しようというのである。

 九月九日夕刻、海津城内では出撃と合戦に備えて炊き出しが一斉に始まり、人馬の動きも慌しくなった。

 この海津城の様子を見ていた妻女山の謙信は、
「今宵、武田の夜討ちありとみた。われらはその先に千曲川を渡り、川中島へ出る」
 と下知したのであった。

 一方の武田側の海津城では夜中に妻女山奇襲隊が城を出、十日寅の刻(午前4時頃)には信玄率いる八千の軍勢が城を出た。信玄軍は千曲川を渡り、川中島八幡原へと進んだ。

 信玄が八幡原に到着した頃に夜が白みはじめたが霧が深かった。そうした中で武田勢は陣形を広げ、整えようとしていた。鶴翼の陣であったといわれている。

 ところが陣形が整わぬうちに人馬のどよめきと喚声が湧き上がった。何事かと信玄は浦野民部に物見を命じて走らせた。浦野は程なく立ち戻り、
「人馬の音は敵にてござ候えども犀川に向かいつつあり、合戦となりても大事ないと思われまする」
 と報告し、信玄の顔を厳しく見た。物見の報告というのは味方の士気を落とすようなものであってはならないのである。しかし浦野は信玄の顔を厳しく見ることによって事態の重さを伝えようとしたのである。だが信玄には伝わらなかったようだ。

 さらに信玄は室賀入道に物見を命じたのである。
「敵は車懸りにて攻め寄せておりまする。急ぎ陣形を整えるべし」
 と室賀入道は慌てて戻ってきた。この報告に信玄の周囲は動揺した。信玄は浦野の機転に気付かなかったことを恥じたが、
 「なに、車懸りなど箕の手にて防げばよい」
 と悠然と言い放った。箕の手の戦法とは信玄が皆を落ち着かせるために咄嗟に思いついた言葉で、実際にあるものではなかったのである。

 そうした間にも上杉勢は武田の陣に向かって果敢に攻め寄せていた。山本勘助は自分の献策した啄木鳥の戦法が失敗したことを知って、ここを死に場所と決めて一番に駆け出し、上杉勢に突入していった。これわ見ていた武田典厩信繁も本陣を守るために上杉勢目がけて駆け出した。これに遅れじと諸角豊後守、小笠原若狭守、一条六郎、山県三郎兵衛らが上杉陣に向かって突撃していった。

 しかし、上杉勢の攻撃は凄まじく武田典厩(典厩寺)、諸角豊後守、山本勘助(山本勘助の墓)ら武田の重鎮たちが次々と戦場に倒れた。上杉勢の奇襲によって武田勢はあきらかに苦戦に陥っていた。啄木鳥戦法の裏を衝かれてしまったのである。

 それでも信玄は本陣を移すことなく、
「見よ、今にわれらの勝ちじゃ」
 と平然として床机に座っていたという。兵の士気は大将の一言に大きく左右されるのだ。

 信玄の嫡子太郎義信も次々と味方が上杉勢に破られてゆくのを見て、われもと五百騎を率いて進み出た。この義信の動きを見た上杉方の村上義清、柏崎日向守らが義信目がけて突っ込んできた。ことに村上隊は信濃を追われた積年の恨みを晴らさんものと凄まじい勢いで挑みかかった。この激戦で義信の馬前で押し寄せる敵を突き伏せていた初鹿野源五郎忠重も力尽きて討死、義信自身も二ヵ所に薄手を負ってしまった。

 この時、武田の山県三郎兵衛昌景も上杉勢の中に突き入り奮戦していた。この山県昌景の前に立ちはだかったのが上杉家中でも大胆不敵で知られた鬼小島弥太郎一忠であった。山県と鬼小島は数度槍を合わせ火花を散らせたが、山県の目の先に義信の危機が垣間見えたのである。
「弥太郎殿、わが主人の危難を救いたし、武士の情けにてこの勝負、許して下されよ」
 山県昌景の思わぬ懇願に鬼小島弥太郎は、
「主人を思うは武士の習い、貴殿の忠義に免じてこの勝負、御縁次第と致そう」
 と槍を引いたという。山県は直ちに義信のもとに駆け寄り、義信の危機を救ったのであった。

 ところで、武田勢の奇襲に成功して次々と武田の陣を打ち破りつつあった上杉謙信である。謙信はこの戦いで自ら信玄を討ち果たさんと武田の陣中深くに山吉、須賀という二人の士を潜入させていたという。

 このふたり、信玄らしき法師武者が同じ出で立ちで並んで陣を構えているのを見て戸惑っていた。ひとりは影武者である武田逍遥軒信廉、いま一人が信玄本人なのだ。戦況は太郎義信が上杉勢に囲まれて危機的な状況になっていた時である。

 その時、二人の信玄のうちのひとりが大声を出した。
「われに構わず、太郎を救えっ」
 と旗本衆に下知したのである。直ちに傍に控えていた内藤修理、浅利式部、原隼人らが義信救援に駆け出した。

 山吉と須賀はあれこそ信玄だと合図の「毘」の旗を槍の穂先に結んで高く掲げた。

 この合図を見た謙信は千坂郡内、市川主鈴、和田兵部らわずか十二騎を従えただけで駆け出した。謙信と十二騎は矢の如く戦場を突き進んだ。信玄本陣の前衛として布陣していた跡部、長坂の陣も突き破り、瞬く間に本陣近くに迫った。

 信玄の周囲は義信救援のために全武将が出払っており、党の者という屈強の勇士二十人が歩立ちで固めていただけであった。信玄の前面でこの二十人と謙信の十二騎が火花を散らす戦いがはじまった。この隙に謙信はただ一騎で床机に腰掛けている信玄の真っ向に迫った。

 謙信は三尺一寸小豆長光の太刀を信玄めがけて振り下ろした。信玄、これを軍配団扇で受け止める。謙信、これでもかと太刀を振り下ろすも信玄はその度に軍配で受け止め続けた。その回数九太刀におよび、そのうち二太刀は信玄受け外して肩先を傷めたという。

 この一騎打ちに気付いた党の者のひとり原大隈守が一大事と信玄のもとに駆け付け、青貝の槍を取って謙信に挑んだ。惜しくも槍は謙信を外れて馬の膝に当ってしまった。謙信の馬は驚いて駆け出す。謙信、無念ではあるが諦めざるをえなかった。

 さて、妻女山に向かった武田の奇襲隊である。夜明けとともに妻女山に乗り込んだがそこに上杉勢の姿はなかった。ただ遠く八幡原方面から馬のいななきや軍兵のときの声が聞こえていた。奇襲隊の高坂弾正、飯富兵部、馬場民部、甘利左衛門、小山田備中、小山田弥三郎、小幡尾張、真田弾正、芦田下野、相木市兵衛らは信玄本陣の危機を悟った。武田の作戦は完全に読まれていたのである。高坂弾正だけは海津城の守りを固めるために戻ったが残りの諸隊はそれぞれに千曲川を渡り、川中島へと急いだ。

 千曲川の対岸では上杉方の甘粕近江守数直率いる千三百余の軍勢が待ち構えており、渡河しようとする武田勢をさんざんに討取った。しかしたちまち四方から攻められ、後退を続けた。

 渡河を終えた武田勢は川中島を疾駆して八幡原の上杉勢の背後に攻めかかった。

 さすがの上杉勢も早朝からの激闘で疲れが出ていた。たちまち崩れ立って犀川方向へと退きはじめた。

 太郎義信は手傷を負いながらも信玄のもとに戻り、
「敵ことごとく退散、味方の大勝利」
 と戦況の逆転したことを報告した。

 信玄は追撃戦を全軍に命じ、本陣を千曲川の向こう岸の高畠に移した。海津城の高坂弾正も上杉勢の敗走を見て、城を打って出た。まず信玄に勝利の祝いを言上して川を渡り、太郎義信のもとに駆けつけた。

 上杉方の甘粕隊は妻女山から下ってきた武田勢を千曲川岸で迎え撃った後も四方の敵と戦いつつ後退していたが、上杉勢の退却がはじまると殿軍として最後まで戦場に踏み止まっていた。武田方の飯富、小山田、甘利、真田、高坂らがこの甘粕隊に突きかかった。甘粕隊千余人の奮戦は凄まじく五百余人が討死してもなお戦い続けた。

 犀川の渡し口では直江大和守隊が退却する上杉勢の渡河を援護していた。兵や小荷駄隊が一通り渡河を終えると殿軍の甘粕隊に撤収の使者を走らせた。

 甘粕近江守は撤収を下知して丹波島へと兵を退き、犀川を北へと渡りはじめた。武田勢もこれを追いかけ、川では甘粕、直江の上杉勢と高坂、甘利、飯富の武田勢が水しぶきを上げて最後の戦いを演じた。

 やがて日暮れとなり、直江、甘粕隊は五千余の兵をまとめて朝日山の麓に陣取った。武田勢も潮時と犀川を渡ることなく兵を引いた。長い戦いの一日がこうして終ったのである。

 朝日山に陣を構えた直江大和守は上杉謙信の行方が気にかかっていた。謙信は信玄との一騎打ちの後、馬廻り十二騎のうち和田喜兵衛、宇野左馬之介、和田兵部など主従五人となって戦場を離脱して春日山城へと向かったのであった。すでに丹波島の渡しは甲越両軍の死闘の場所となっていたため馬首を返して布野から千曲川を渡り、北上して帰還の途についたのである。千曲川を渡る際に和田兵部、宇野左馬之介が追いすがる武田勢を防いで討死した。

 三日後、謙信の無事帰城の報せを受けた直江、甘粕の越後勢は朝日山を撤収した。

 信玄は八幡原で勝鬨の式を挙行、勝利の勝鬨を上げた。

 上杉方の戦死者三千四百七十余人、武田方の戦死者四千六百三十余人と伝えられている。


八幡社内に建てられた「三太刀七太刀之跡」碑。一太刀目は軍配で受けたが二太刀目は腕、三太刀目は肩に傷を負ったという。後で軍配を見ると太刀傷が七ヵ所あったという。その左の巨木は「逆槐(さかさえんじゅ)」と呼ばれるものである。信玄がここに本陣を構えた際に土塁の土止めに自生していた槐を逆さにして打ち込んだ。それが合戦後に芽を出したというものである

▲「執念の石」。謙信が信玄に斬りつけているのに気付いた原大隈守が信玄のもとに駆け付けて青貝の槍で謙信を突いたが、外れて馬の膝を打ってしまった。馬は驚いて謙信を乗せたまま走り去ってしまった。原大隈守は無念やるかたなく傍らにあったこの石を槍で貫いたという。

八幡原史跡公園の南側にある「首塚」。合戦後、海津城の高坂弾正が戦死者の遺骸を集めて弔った塚のひとつである

 「赤川の歌碑」。八幡原史跡公園の南約400mの所にある。昭和2年に赤川神社跡地に建てられた。長野師範教師浅井洌の作詞で「骨をつみ血しほ流ししもののふのおもかげうかぶ赤川の水」と刻まれている。社前を流れていた川は戦死者の血で三日三晩赤く染まったと伝えられている

八幡原史跡公園内の長野市立博物館。長野盆地の自然、歴史、民俗資料などが展示されている
----備考----
訪問年月日 2007年11月
主要参考資料 「甲越信戦録」他

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