黒川城
(くろかわじょう)

                   北設楽郡豊根村上黒川           


▲ 現在、城址は円山または弘法山と呼ばれ、弘法大師や琴平様忠魂碑が祀られている。

松の木之根に
       行暮れて

 享禄三年(1530)、宇利城(新城市)落城。
 三河統一を目指す松平清康の大軍を相手に宇利城主熊谷備中守実長以下城兵数百人は果敢に戦ったものの、城内に松平方に内応する者があり、奮戦の甲斐なく多くが討死、もしくは落武者となって消え去った。
 城主実長のその後の消息は不明である。いくさで傷つき、見ず知らずの山奥で自刃して果てたのであろうか。ただ、実長の二人の息子はそれぞれ落ち延びて代を重ねた。長男直安は奥三河の山中に逃れ、次男正直は西三河高力(額田郡幸田町)に名を変えて潜んだ。はじめ梁田を称し、後に高力を名乗った。
 さて長男直安である。一族一党散り散りとなり、わずかな供とともに山また山の険路を踏破して信濃との国境近く、ここ兎鹿嶋(とがしま)という少し土地の開けた所にたどり着いた。信州伊奈の左閑辺郷(下伊奈郡天龍村坂部)の郷主熊谷氏の「熊谷家伝記」には、
「三州黒川兎鹿嶋の近所、松の木之根に行暮れて野陣す。其所に兎鹿嶋を見立て開之蟄居す」
 と記されている。おそらくはこの先祖を同じくする信州の熊谷氏を頼ろうとしたのであろうか。
 いずれにせよ、直安はこの地を拓いて居を構えた。戦国争乱の地から隔絶されたこの山里が直安の心身を癒してくれたに違いない。直安は五人の男子をもうけた。
 嫡子直基が直安の後を継いだが、彼は武を捨て農に生きる道を選んだ。それが正しかったといえようか。直基の家系はその後連綿として続き、現在に至っている。十七代目卓也氏は現豊根村の村長を務めておられる。
 現在、黒川城址を訪ねると、その説明板には熊谷玄蕃という郷士の居城跡と伝えられている、とある。これは「三河国二葉松」に記されているもので、
「熊谷玄蕃天正十年(1582)信濃平谷より此処へ蟄居」
 とあり、城址のすぐ脇にある熊谷屋敷(国指定重文)もこの熊谷玄蕃を初代とすると云われている。
 しかし、設楽町の郷土史家によれば、城はそれ以前からあったことは確実であるとし、宇利城を落ちた熊谷氏の子孫が天文年間(推定)に築城したものであるとの見解を示している。
 直安、直基が武士を捨てたとはいえ、野武士や山賊の類から郷村を守るには自ら武装して戦わねばならない。そしてそのための砦が必要であったことは当然考えられることである。この黒川城がそれであったと云えなくもない。

▲ 城址に隣接する熊谷屋敷。国の重要文化財に指定されている。
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画像の撮影時期*2007/04

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