松平城とも呼ばれるこの館は松平兵庫助がその主であったと伝えられている。松平兵庫助は宝飯郡長沢城主松平康忠の舎弟と言われる。
永禄五年(1562)に長沢松平康忠は松平元康(徳川家康)から宝飯郡小坂井、八幡など千八百十貫文の領地を宛行われたことが伝えられている。この時に同郡内である当所の篠田西原三十貫文、篠田之郷二百貫文も含まれていたと思われ、その領地支配のために兵庫助が城館を構えたものと見られている。
永禄五年当時、この辺りは今川方と松平(徳川方)の軍兵が行き交う戦乱地帯であった。八幡砦や佐脇砦の争奪戦のあった時期である。牧野氏の本拠地牛久保城に今川氏真自身が入城して戦いの采配を振り、松平勢の進攻を阻止しようとして激戦が展開されていた。
この時、松平勢は一宮砦を築いて今川勢を牽制していたが、おそらくはここ篠田の地にも土塁を巡らした砦を構築したのではないだろうか。当然、元康は当地を所領として与えた長沢松平康忠に守備を命じたはずである。翌年、今川氏真は駿河へ撤収して牧野氏の牛久保城は落城した。
兵庫助が篠田・西原の支配のために居所を当地に定めたのはその後のことであろう。天正十五年(1587)大木神社の棟札に「…時之地頭松平兵庫助…」とあるという。天正十八年(1590)、徳川家康の関東移封により廃されたものと思われる。
ちなみに長沢本家の康忠は永禄九年(1566)に家康から牛窪領も与えられている。
現在の館跡は水田・畑地・宅地となって見る影もないが、土塁の一部が田畝に残存して古の名残を今にとどめている。
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