豊川城
(とよかわじょう)

        愛知県豊川市西豊町1       


▲ 豊川城は江戸初期に水野氏が当地に陣屋を構えたことを後世に伝えるために名付け
られたようなもので、本来は豊川水野氏陣屋又は水野家屋敷跡と呼ぶ方が妥当と思われる。
(写真・光明寺山門前に建てられた城址碑。)

旗本水野氏の陣屋跡

 三河国司大江定基の孫、定厳がこの地に居館を構えたのに始まるとされる豊川城であるが、言うまでもなく戦国期に見られる城というものではなく、地域支配のための役所を兼ねた居館程度のものであったろう。
 大江定厳がこの地の地頭となって居を構えたのは鎌倉時代の初期の頃とされている。祖父の定基が三河守として赴任したのが寛和二年(986)頃のことであり、その間二百年以上の時を経ている。はたして孫なのか疑問である。
 それから三百年以上の時を経て戦国期の天文年間(1532-55)に浄土宗光明寺が同地に開創された。その間の城館としての事歴は分らない。おそらくその存在すら無かったのではないだろうか。そもそも城館としての歴史を大江氏にまでさかのぼること自体が疑問視される。
 明確に当地に城館を構えて領地経営にあたったのは水野勝成(刈谷城主)の弟佐渡守忠直であった。慶長七年(1602)七月、高三千石にて当所を拝領した。忠直は屋敷を建てるにあたり住人である百姓を追いたてて土地を確保したようで、強引な領主であったようだ。
 ともあれ、豊川城としての事歴を論ずるならばこの水野氏の構えた屋敷(陣屋)のことになろうかと思われる。
 忠直は三年ほど仮屋敷を設けた後に本格的な陣屋建設に取り掛かったようだ。この時も寺や百姓の住居を追い立てて七反一畝分を確保し、堀と垣塀を設けたという。約2000坪、サッカー場くらいの広さとなろうか。
 それにしても忠直の領主としての評判は良くない。年間50人80人は切り殺されていたと伝えられている。
 寛永十二年(1635)三月、江戸屋敷にて家人(小姓)に斬られて落命。五十三歳。知行召上げとなった。子の政直が継いだとも言われるが結局は家禄召上げ、屋敷も取り潰された。
 今となっては屋敷跡の痕跡すら無く、豊川城趾と刻まれた石碑が光明寺の門前に建つのみである。

 ▲ 光明寺山門。城址碑はこの門のすぐ右側に建っている。
▲ 光明寺本堂。水野氏が屋敷を構えた場所は明確でないが、光明寺に隣接する地域であったようだ。

▲ 光明寺墓地の一画にある水野八十郎後に佐渡守忠直の墓。右端の墓石には「前佐州大守休翁良罷」と刻されてる。
----備考----
訪問年月日 2012年12月23日
主要参考資料 「城 第172・173号」他

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