七州城
(しちしゅうじょう)

              豊田市小坂本町8丁目     


▲ 七州城は挙母藩の府城として江戸中期に築かれた城である。城か
らは三河、尾張など七か国が見渡せたことからこの名が付けられた。
(写真・復興された七州城隅櫓。)

立藩後百八十年にして築かれた挙母の府城

 慶長九年(1604)に三宅康貞の入部によって立藩された衣藩一万石は当初佐久良城(桜城)の地(豊田市元城町)に陣屋を構えたことにはじまる。その後本多氏の入部(天和元年/1681)によって「衣」から「挙母」へと表記が変わり、寛延二年(1749)上野国安中より内藤政苗(まさみつ)が二万石の藩主として封じられた。
 挙母藩主となった内藤政苗は陣屋であった桜城を城郭化するために幕府から四千両を借用して宝暦六年(1756)から築城工事を始めた。しかし、当地は慢性的な水害に悩ませられてきた所で工事は遅々として進まず、ことに明和二年(1765)と三年(1766)に連続して起きた矢作川の大洪水によって工事は断念されたという。
 明和三年(1766)に二代藩主となった学文(さとふみ)は安永八年(1779)に丘陵地である童子山への築城を幕府へ願い出て許可され、翌年から工事を開始した。この城が七州城である。築城にあたり幕府から二千両を借り受け、天明五年(1785)に一応の完成をみた。
 学文は藩校「崇化館」を開設して子弟の育成に意を注ぎ、また領民に対しては愛撫の姿勢で接したという。不作の年には朝夕家臣と共に粥を食し、綿の衣を常用して質素倹約につとめた名君として知られている。
 ちなみに学文は紀州徳川宗将の四男で養子に入った藩主であった。三代政峻(まさみち)は延岡藩内藤政陽の次男、四代政成(まさしげ)は彦根藩井伊直中の八男、五代政優(まさひろ)は同じく井伊直中の十三男、六代政文(まさふみ)も井伊一門の出身といった具合で挙母藩主は養子で相続された。
 五代政優の時、天保の大飢饉が起こり、救済に尽力したようだが天保七年(1836)に松平地区でついに農民一揆が発生した。この一揆は一万人以上の大一揆に発展し、加茂一揆と呼ばれた。

 この一揆鎮圧のために政優は鉄砲隊を出動させ、矢作川の堤でこれを撃退、鎮圧した。
 この後、挙母藩は蘭式銃陣法を取入れて軍備の近代化を図り、幕末時には英式に改められたという。
 最後の藩主となった七代文成(ふみしげ)は六代政文の嫡男であった。歴代藩主のなかで唯一の実子相続であった。しかし、安政五年(1858)に父の死去によって家督を継いだのはまだ四歳であったため藩政は家老による合議制で進められた。
 慶応四年(1868)、藩主不在であったが挙母藩は新政府に恭順して兵糧の供給などに協力している。
 明治三年(1870)廃藩置県、翌年には廃城となって七州城は取り壊された。
 なお、七州城の名は城から三河、尾張、遠江、信濃、美濃、伊勢、近江の七ヵ国が望見できたことから付けられたと言われている。


▲復興隅櫓近くに建つ「挙母城阯之碑」。

▲豊田市美術館と供用の駐車場。かつては蓮池と呼ばれる本丸の堀であった所である。

▲駐車場から隅櫓まではすぐである。

▲七州城唯一の遺構ともいえる櫓台の石垣。

▲「七州城隅櫓再建之碑」。昭和52年(1977)に再建された。

▲櫓台の内側から見た隅櫓。

▲隅櫓の場所からの眺め。七州が見渡せたというが、現在では住宅の屋根ばかりである。

▲又日亭。寺部城に在った渡辺氏の書院と茶席を市が移築・復元したもの。

▲又日亭の裏の石塁。遺構なのかは分らない。

▲隅櫓の東側一帯は豊田市美術館の敷地となっている。
----備考----
訪問年月日 2013年12月15日
主要参考資料 「豊田の史跡と文化財」他

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