浅羽荘司館
(あさばのしょうじやかた)

                   袋井市柴           

浅羽荘司之館
▲ 館跡に立てられた史跡碑。館跡の広さは東西100m、南北
   130mとあるが、現在は宅地化によって遺構は残されていない。

変革の波に翻弄された
            開発領主

 江戸期、この地は浅羽一万石の米蔵と呼ばれた豊かな穀倉地帯である。江戸末期三十三ヵ村の村高は一万三千六百余石とある。この基を拓いたのが浅羽氏である。

 しかし、浅羽氏に関する詳細は不明な点が多い。関東からの移住説もあるがよくわからない。ともあれ浅羽氏が史上にその名を現すのは「吾妻鑑」によってである。

 治承四年(1180)十月、富士川の戦いで平家軍を壊走させた源頼朝は平家の再攻に備えて駿河と遠江に守護(当時は守護人と称した)を任じた。鎌倉方による最初の守護設置であり、これはまた武家政権による支配の先駆けでもあった。

 さて、守護として遠江にやってきたのは富士川の戦いにおける最大の戦功者、甲斐源氏の一党安田義定であった。翌五年三月、義定は橋本(現・新居町)に砦を構えるため、遠江国内の諸領主に対し、人夫の動員を命じた。

「守護人とな」
 浅羽荘司を名乗る宗信は初めて聞く職名に首をひねったに違いない。

「国司でもないのに、突然やってきて我らに命令するとはどういうことなのじゃ」
 宗信の胸の内には、自らの手で土地を切開き、領民を養ってきたという自負があった。

「得体の知れぬ者の命に従うことはない」
 宗信は人夫の供出を拒否し、さらには守護である安田義定の眼前を騎乗のまま通り過ぎるという行動をとった。

 当然、義定は宗信の行動を頼朝に訴えた。激怒した頼朝は宗信から浅羽荘を取り上げてしまった。

 時代が変革しつつあったのである。武家の統治社会へと。領地を失った宗信はその現実を受け入れざるを得なかった。そして直ちに謝罪したが叶わなかった。僅かな土地(市内柴)と田所職を返されたにとどまったのである。

 その後、当地の浅羽氏は帰農の道をたどり、村人の尊崇を得て、庄屋をつとめるなどしたという。


▲館跡は宅地化が進み、現在ではその一画に石碑が建つのみである。

館跡に隣接する円明寺。かつては本堂の裏に土塁が残っていたというが、現在では確認できない
----備考----
訪問年月日 2005年3月19日
主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他