びじがやじょう
(びじがやじょう)

                   掛川市上西郷           


▲ 正面の山が城址である。石谷氏もしくは西郷氏の築城と推測されているが
詳細は判然としない。城山はただ静かに、五百年ちかくの歳月が過ぎた今も
なお城主の帰りを待ち続けているかのように行き交う人々を見おろしている。

旗本石谷氏、
      故居の地

 多くの土豪の場合と同じく、石谷(いしがや)氏の出自も諸説錯綜していてはっきりしない。石谷を名乗る以前は西郷であったとも二階堂であったとも云われている。このことが誤認、混同、さらには粉飾性の強い伝承が生まれるもとになっている。鎌倉幕府官僚の二階堂氏を祖とするとも、また三河の西郷氏を関連付けようとするなどして錯綜しているのが現状である。また、美人谷城そのものも石谷氏の居城であったとは断定されていない。
 往古、この付近は西郷庄のあった地で西郷を名乗る土豪がいた。永正三年(1506)に今川氏親の重臣伊勢新九郎(後の北条早雲)による三河進攻に従った遠江衆のなかに西郷の名があるのはこの西郷氏であるとされている。しかし、この西郷氏はその後何らかの理由で没落したものと思われる。その後を受け継いだのが石谷氏なのであろう。城址周辺には石谷氏に関連する遺跡(伝石谷氏館跡とされる殿垣戸、二階堂神社、石谷の里に残る名字石、伝石谷氏屋敷跡とされる霊栄大明神廟)が多く散在しており、この土地が石谷氏の所領となっていたことは確かであろう。
 その石谷氏が戦国乱世を生き延びるために、他の国人、土豪らと同様に山城を築いたとしてもそれはごく自然なことと云ってよい。
 石谷氏の名が具体的に歴史に登場するのは永禄十二年(1569)の徳川家康による遠江進攻に際してである。この時、当主石谷十郎右衛門政清は子政信、清定とともに西郷十八士を率いて家康に属したのである。姓を西郷から石谷に改めたのはこの時であるとも云われている。
 政清は天正二年に没したが、石谷氏は徳川家の旗本として家康の関東入りに従い、多摩郡(東京都狛江市)に所領を賜った。清定の三男左近将監貞清は島原の乱征討軍の副使を務め、また江戸町奉行として由比正雪の乱を察知して関係者を捕縛するという功績を残している。

▲ 石谷氏の居館があったとされている石谷の里には「名字石」と呼ばれる九つの巨石が一所に群立している。石谷氏の家紋である九曜紋に因み家紋石とも呼ばれている。

----備考----
画像の撮影時期*2006/11