はらどのしんびょう
(はらどのしんびょう)

                   掛川市寺島           


▲ 寺田氏の屋敷内に祀られている原師清公の廟。

原氏五百年
      始祖の地

 原氏は平安末期から戦国期にいたる約五百年間、ここ原野谷川流域一帯をその勢力基盤としていた一族である。
 その発祥の地とされているのが当地である。またここは原氏の末裔である寺田氏の館跡でもある。寺田氏は現在でも御子孫が当地に健在で、原氏の始祖である出羽守師清公を祀る祠をお守りしている。
 藤原北家専制による平安貴族全盛の時代に南家の藤原氏は不遇であったようだ。藤原南家の武智麿の子孫は地方に官職を求めて都を離れる者が多かったといわれる。武智麿の四男工藤太夫為憲もそうしたひとりで、彼は駿河に下向して土着してしまった。その子孫は駿河国の各地に広がって多くの支族が生まれた。その支族の一党が遠江原谷(はらのや)に移り、原氏を称したとされている。
 その初代が神廟の主、出羽守師清なのである。師清らの一党は社寺や公卿の荘園に属していない空閑地に土着して墾田開発に乗り出し、私有領地を増やし続け、子孫繁栄の基盤を築いたのである。師清の没年は承徳二年(1098)六月であるとされている。この年は八幡太郎義家が武家としてはじめて昇殿を許された年でもあった。
 その後代を重ね、四代清益は源氏に属して平家追討に功績があり、本郷の地頭となったのを機にその本拠を移したと伝えられている。
 その後の江戸期、原殿古城跡と伝えられていた当所は村長の屋敷となった。ところがここに住むと必ず祟りが起こり、住む者皆退去して次々と村長が替わった。何代目かの村長になった寺田藤蔵は怪奇現象に耐え抜いた。これは出羽守の霊であると気付いた藤蔵は、元禄七年(1694)領主に願い出て裏山に祠を勧請した。その後は何事もなく、宝永年間(1704〜10)には屋敷内にこの祠を移して今に至っているのである。
 ただ残念なことに古文書等の史料の焼失、散逸、戦災などによってその多くが失われており、原氏の事績や系譜については改竄、憶測、混同などによって明確でない部分が多いのが現状である。

▲ 祠ははじめ裏山(明神山)の山腹にあった。
----備考----
画像の撮影時期*2006/07