十九首塚
(じゅうくしょづか)

                   掛川市十九首          


▲ はじめは十九基あった塚も歳月とともに減り、一基だけとなっていたが近年の整備により
画像のようになった。将門の周りを臣下の武将たちが囲むようなかたちになっている。

遠江将門伝説

 平将門。平安中期天慶二年(939)に関東一円の国府を襲い、国司を追放して自ら文武百官を任命し、いわば朝廷の支配を排除して独立国を組織した武将である。世に云う「承平・天慶の乱」または「平将門の乱」の主人公である。

 この乱は翌天慶三年二月十四日に平貞盛と下野国の押領使藤原秀郷らの軍が将門を討ち取って治まった。この事件は単に地方の反乱というに留まらず、日本の歴史が京の朝廷や貴族から武士というものにその軸足を移して行く事になる最初の出来事であったとも云えよう。

 さて、将門を討ち取った後、京からの征東副将軍藤原忠舒(ただのぶ)も加わって残党の掃討追捕が展開された。将門に臣従していた者達は次々に討たれて反乱は完全に鎮圧された。

 藤原秀郷は将門とその一党合わせて十九の首級を携えて京へ向かった。秀郷一行がここ掛川宿に達したとき、京から下ってきた検視の勅使と出会い、当地において首実検が行われた。

 首実検はこの塚の近く東光寺の脇を流れる小川(血洗川)で首を洗い、橋に懸けて行われたと云う。検視の勅使は実検が済むと、将門の怨念を忌み嫌い、
「首を京に持ち入るべからず。この地にて打ち捨てるべし」
 と命じたと云う。
 しかし秀郷は、
「将門逆臣といえども、屍に鞭打つは礼に非ず」
 として手厚く葬ったということである。同年八月十五日のことであったとされている。

 地元では例年この日に供養祭を営んでいる。そして「十九首(じゅうくしょ)」は町の名となり、人々の記憶に残り続け、語り伝えられて行くことであろう。また、首実検が川の橋に懸けられて行われたことから、これが掛川の地名の由来であるとも云われている。

 ちなみに十九人の名を列記しておこう。なお国名は反乱当時、将門によって任ぜられたものである。
 ・相馬小太郎将門(平将門)
 ・御厨三郎将頼(平将頼、舎弟、下野守)
 ・大葦原四郎将平(平将平、舎弟)
 ・大葦原五郎将為(平将為、舎弟、下総守)
 ・大葦原六郎将武(平将武、舎弟、伊豆守)
 ・鷲沼庄司光則    ・武藤五郎貞世
 ・鷲沼太郎光武    ・堀江入道周金
 ・御厨別当多治経明(上野守)
 ・御厨別当文屋好兼  ・隅田忠次直文
 ・東三郎氏敦      ・隅田九郎将貞
 ・藤原玄茂(はるもち、常陸介)
 ・藤原玄明(はるあき)  ・大須賀平内時茂
 ・長橋七郎保時    ・坂上逐高(みちたか)

▲「旧跡十九首塚」の碑。

▲十九首塚の由来説明板。

----備考----
 訪問年月日 2006年11月4日
主要参考資料 現地説明板・他

トップページへ遠江国史跡一覧へ