じょうがしまじょう
(じょうがしまじょう)

                   周智郡森町鍛冶島           

城ヶ島
▲ 鉄採取の地を押えるために山内氏が築いた城跡である。

鉄のめぐみ

 飯田荘(現・森町東部)の在地領主として最初に登場するのが山内氏である。この山内氏は戦国期になると同荘内の天方郷の天方氏と飯田郷を治める山内氏とに分かれる。飯田郷の山内氏は徳川家康に滅ぼされてしまうが天方氏の方は徳川方に属して郷村を守り通した。何れも祖先は同じである。
 ここ城ヶ島の城はその山内氏が荘内に領主としての基盤を置いた初期の城である。
 鎌倉時代の弘安四年(1281)、備後国の山内通茂の所領のひとつとして飯田荘内三ヵ村の地頭識を幕府が認めている。
 備後に基盤を置く山内氏がなぜ遠江の僻村を領有していたのであろうか。それは鉄である。中国地方の山地では古くから砂鉄の採取が始まっており、刀剣の製作が発達していたが、山内氏の経済基盤を支えるものとしてこの鉄の存在は大きかったに違いない。
 その鉄がこの城址の目の前を流れる吉川沿いの山中から多く産出していたのである。
 実際にこの荘に赴任したのはいうまでもなく地頭本人ではない。その代官である。おそらくは同姓の山内氏の末端に連なる者であったのであろう。
 その代官が最初に館を構えたのは三倉川沿いの西俣というところであった。次いで産鉄の地である鍛冶島に城を築いたのである。
 その後、時代は南北朝の争乱期をむかえ、在地領主たちは自立化の傾向を強めていくことになる。そこで、自立と米は不可欠のものとなってくる。山内氏は鉄よりも田畑を確保するために大鳥居に進出して天方本城を築いたのである。このことが、山内氏の国人としての第一歩となった。
 現在は鍛冶島などの地名にかつて産鉄の地であったことをうかがわせているだけである。
西俣館跡
▲ 山内氏が最初に拠点を置いた
 三倉川沿いの西俣の館跡。
----備考----
画像の撮影時期*2006/03