鎌田兵衛供養塔
(かまたひょうえくようとう)

      磐田市鎌田     


▲鎌田兵衛供養塔は源義朝の家人鎌田政家の墓とされるもので、
没後139年後に建立されたが、その由来の詳細については不明である。
(写真・五輪塔の収まる塔舎)

遠江鎌田の五輪塔

JR東海道線御厨駅の南側の地域は鎌田と呼ばれている。駅から南へ500mほどのところ、宅地化が進みつつある畑地の一画に石塔を収めた塔舎が建っている。塔舎の中には三基の緑がかった五輪塔が並んでいる。その中央の最も大きな五輪塔が鎌田兵衛政家(正清)の供養塔であり、磐田市内最古級の五輪塔とされている。

鎌田政家は平安末期の相模国住人鎌田権守通清の子で、母は源義朝の乳母をつとめたとされる。このため義朝とは乳兄弟であり、最も信頼のおける第一の家臣であった。保元の乱(1156)そして平治の乱(1159)では義朝のもとで戦功を重ね、左兵衛尉に任ぜられた。しかし平治の乱は義朝の敗北、平清盛の勝利で決着した。義朝は決死の覚悟で平家の本拠地六波羅へ突っ込もうとしたが、鎌田政家の「一旦、都を落ち、東国にて再挙の時を待つべし」との諌言によって思い止まったという。

都を脱出した義朝主従は数騎となって美濃国青墓(大垣市)にたどり着いた。ここで長男義平が再起を期して飛騨へ走り、次男朝長は傷が癒えずに自害した。三男頼朝は道中はぐれて行方知れず。政家は妻の実家である知多半島野間の長田氏の館へ義朝を案内した。ところが、長田忠致、景致父子は恩賞目当てに義朝と政家を討取ってしまったのである(伝・源義朝公最期の地)。現在、源義朝と鎌田政家の墓は愛知県美浜町野間の大御堂寺にある。

なぜ、鎌田兵衛の供養塔が磐田市にあるのか、その由来が気になるが、詳しいことは分からないらしい。江戸中期に著された「遠江国風土記伝」には五輪塔に「鎌田兵衛〇〇永仁七年己亥正月廿二日」と刻まれていたことが記されている。〇〇部分は当時すでに摩滅して分からなかったようで、現在ではそのすべてが判読できなくなっているという。

このことから分かるのはこの五輪塔が鎌田兵衛のもので、建立されたのが永仁七年(1299)であるということだけである。義朝と政家が野間に斃れてから139年後に建立されたことになるが、誰が建てたかは分からない。明治以前、ここには万福寺という真言宗の寺があったというが、それも廃寺となり、境内に散在していた五輪塔がまとめられて現在に至っている。


▲塔舎前に立てられた「鎌田兵衛の墓」という表示板。

▲中央の大きな五輪塔が鎌田政家のものである。石が緑がかっているのは焼津市浜当目産の「緑色凝灰岩(当目石)」であるとされている。

▲本来、大小六基の石塔がまとめられていたが、現在では塔舎内の三基以外はこのようにしてまとめられている。

▲鎌田政家の説明板。



----備考---- 
訪問年月日 2023年6月24日 
 主要参考資料 「遠江史蹟瑣談」
「遠江武将物語」他

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