きゅうえんじ
(きゅうえんじ)

                   掛川市佐夜鹿           

久遠寺
▲ 真言宗久遠寺の本堂。当地は夜鳴石伝説の地でもあり、
  境内にはその供養石や、また家康手植えの松などがある。

山内一豊と家康、
        信頼の茶亭

 慶長五年(1600)六月、徳川家康は会津の上杉討伐のために伏見を発った。その軍勢三万数千余。
 一方、山内一豊ら東海筋の諸侯は家康に先立って帰国、出陣の準備にあたっていた。この当時、一豊は掛川五万石の城主である。領内の陣触れはもとより、兵糧の調達、大軍通過の際の宿営地の準備、行軍路の便宣など家康本軍の通過に備えなければならなかった。
 もともと東海道筋には家康を関東に封じ込めるために豊臣恩顧の大名が配されており、一豊もその一翼を担っていた。家康は石田三成らの不穏な動きを承知で上方を後にしたのである。近江水口の長束正家の城下を通過する際には暗殺を警戒して正家の饗応を拒絶して通過している。豊臣恩顧大半の諸侯が三成憎しに傾いているとはいえ、この時点では家康に忠誠を誓うところまでには至っていない。
 六月二十四日、家康軍は掛川城下に入った。出迎えた一豊は家康を小夜中山で昼食を用意して饗応した。さらに茶亭を設けてもてなしている。
「ここは武田の諏訪原城を攻めた際に陣を置いた思い出の地じゃ」
 家康は茶をすすりながら若き日のことを思い起こしてお互いの苦闘時代の話しに興じたことであろう。そこには家康の一豊に対する警戒心など微塵もなかった。
 この時、一豊と家康の間はすでに太い絆で結ばれていたのであろう。小山評定における掛川城献上という一豊の発言は、諸侯の家康に対する忠誠心を固めるのに大きく作用したが、一豊にとってはごく当然なものであったのであろう。
茶亭跡 ▲ 一豊が家康をもてなした茶亭跡の碑。 供養石
 ▲ 身籠ったまま盗人に殺されたお石はそばの丸石に乗り移り夜毎に泣いたという。この時生まれ落ちた赤子はここの和尚に育てられ、成人して仇を討ったという。
----備考----
画像の撮影時期*2006/02