さなだじょう
(さなだじょう)

                   周智郡森町一宮           

真田城址
▲ 城址山頂の標高は112b。小国神社に続く県道沿いに位置している。

土着の小領主
        武藤氏

 ここ一宮の地に武藤氏の名が登場するのは応永二十七年(1420)のことである。この年の六月、北九州の有力武将少弐満貞がその所領となっていた一宮大田郷一藤名(いちふじみょう)の地頭に武藤白幡を任じたのが、武藤氏と一宮との関わりの始まりであろう。
 永享四年(1432)十二月、足利幕府は一宮荘代官職を武藤用定に安堵している。これは北九州において反幕の行動を取り続ける少弐氏を封じ込めるためであろうと思われ、また武藤氏としても少弐氏との縁を断ち切り、独立する好機でもあったのではないだろうか。この当時の居城は一藤名に近い草ヶ谷にあった。
 武藤用定は幕府の奉公衆として将軍に忠勤を励んだ。奉公衆というのは将軍直属の軍団を構成するもので、用定の他に武藤孫三郎、同弥四郎、同孫四郎の名が記録されている。これは一族をあげて足利将軍に近侍していたことをうかがわせている。
 その後、世は戦国の様相を色濃くし、守護大名はその軍事力をもって支配地域を拡大、戦国大名と化していった。遠江は守護斯波氏と隣国駿河の今川氏とが激突する争乱の地となった。
 やがて遠江は今川氏によって統一されることになり、武藤氏もその被官に組み込まれていった。もはや形骸化しつつある足利将軍に近侍する意味は無くなっていたのである。
 永禄の頃(十六世紀中頃)、武藤家の当主は刑部氏定であった。今川氏全盛の義元の時代である。氏定は草ヶ谷の平地に館を移し、天文十四年(1545)、それまでの城跡に香勝寺を建立した。さらに小国神社及び一宮防衛のために真田山に築城した。この城がここ真田城と呼ばれるものである。
 磐石と思われた今川氏も桶狭間に義元が敗死した後は衰退の一途をたどり、遠江は武田信玄と徳川家康の争奪、激突の争乱の地と化することになる。永禄の後期から元亀にかけては、数百年にわたって土地に根付いた遠江の小領主たちにとって存亡を賭けた運命の時代となった。武藤氏とて例外ではない。
 以後の武藤氏については夜話「片瀬城」に続く。
城址碑
 ▲ 城址登山口の城址碑。
草ヶ谷城
 ▲ 武藤氏本来の居城であった草ヶ谷城址。手前の
   寺院は「ききょう寺」として有名な香勝寺。
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画像の撮影時期*2005/11及び2006/3