たかふじじょう
(たかふじじょう)

                   掛川市本郷           


▲ 現在、城址である丘陵の上部は全域ゴルフ場となりいくつものコースが造成され
 ている。遠江を去った原氏の足跡は今も消され続けているようなものである。

追われた一族

 戦国時代とは、強力な武将によって淘汰されゆくなかで、数多くの一族がその去就に迷い、そして浮沈を賭けた戦いに臨んだ時代であったともいえる。
 そして一族の保全を勝ち得た者、反対にその地を追われ流浪の身となった者、あるいは一族もろともこの地上から消え去ってしまった者と様々な戦国絵巻が繰り広げられた時代である。とくに有力な庇護者を失った地域に於ける国人、土豪らの運命はまさしく戦国という名の荒波に翻弄されたといえるであろう。遠江国本郷を本拠とする原氏もその荒波に翻弄された一族であった。
 原氏の歴史は古く、平安期に遡る。その原氏がここ本郷に城館を構えるようになったのは鎌倉時代、原氏の始祖出羽守師清が原谷(原殿神廟)に足を踏み入れてからおよそ百年後の四代三郎清益のときであるとされている。
 清益は平家追討の源義経の軍に従い、一の谷の戦いに参加した。その軍功によってここ本郷の地頭として領地を安堵され、その後数代を経る間にその領地も隣接する細谷郷にまで及んだ。
 鎌倉の御家人として安定していた時代が過ぎ、南北朝争乱の時代へと世は移る。北朝方の隣国駿河の今川範国が遠江の守護となるにおよび、原氏は自己防衛のために南朝方についた。高藤城が築かれたのはこのときである。残念ながら高藤城が南朝方としてどのような戦いを演じたかは、史料の散逸、改竄、抹消などによって闇の中である。
 文明十三年(1481)頃、世は戦国となり、遠江は駿河の今川氏親による武力侵攻にさらされることとなる。原氏は再び高藤城を拠点に防衛戦を展開することになった。相手は後の北条早雲こと伊勢新九郎であった。戦禍は数年に及び、領内は荒廃、無残の極に達したという。原氏十二代頼景のときであった。
 こうして幾度かの危難を乗り越え、五百余年にわたり存続しえた原氏であったが、十五代頼延の代にいたり運命の時を迎えることになる。
 徳川家康の遠江進攻と時を同じくして武田信玄も軍を遠江に進出させ、家康の動きを牽制していたが、元亀二年(1571)信玄みずからが遠江を席捲した。この際に頼延は武田方に属した。こうして武田の支援を受けて頼延は各和城に兵を進出させて徳川方の来攻に備えることになった。
 元亀四年、徳川勢の反攻が始まった。各和城が石川家成、久野宗能の軍によって落とされると、原頼延は抗戦ではなく逃避の道を選び、西国の小早川隆景を頼って安芸国竹原へと落ちて行ったのであった。
 その後、遠江における原氏の遺跡は荒廃するにまかせ、原氏の歴史も日陰のような存在となっている。

▲ 十二代頼景によって再興された長福寺。この門前の字名は古城(ふるしろ)と呼ばれ、原氏の古城跡(本郷城)と伝えられている。高藤城の北約1.5`の地にある。
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画像の撮影時期*2006/09