高代山砦
(たかしろやまとりで)

                 掛川市細谷         


▲ 高代山砦は原谷郷の関門にあたる位置にあり、原氏の出城説などがあるが、その詳細は
明らかではない。(写真・東側から見た砦跡。右側の竹藪の高所が主曲輪である。)

原谷郷関門の砦

 原野谷川中流域に広がる田園地帯は古くから原谷(はらや)郷と呼ばれてきた。現在の掛川市細谷、同本郷辺りである。鎌倉以来同地に勢力を保ち、戦国期には国人領主として栄えた原氏の領域であった地域である。その南端に築かれているのがこの高代山砦である。ここから2kmほど南には今も昔も変わらず東西交通の大動脈である東海道という街道が通じている。古来、戦の度にこの街道を多くの兵馬が西へ東へと駆け抜けた。原氏も原谷の郷土からこの街道を駆けて出征し、またこの街道からの侵入者には身を挺して郷土を守ったことであろう。いわば高代山砦は原谷郷の出入り口に築かれていることになる。
 ただし、この砦に関しては江戸期に編された「掛川誌稿」に「孤山なり、岡津村の旗指山と相対せり、何人の古墟なること知らず」とあるのみのようで、築城者や築城年代ともに不明とするほかない謎の砦跡なのである。先の原氏の出城との見方もあるようだが、これも確たるものではないらしい。
 「掛川の古城址」の著者(林隆平氏)は明応三年(1471)秋に遠江に侵攻した今川氏の将、伊勢新九郎(後の北条早雲)が原谷地方席巻の陣所と考えるのが妥当としている。確かにこの砦からは原谷郷のほぼ全域が俯瞰でき、原氏の本拠である本郷付近まで見渡せるのである。原氏攻略の陣所とするには格好の位置にあるといえるが、これとて推測の域を出るものではない。

 徳川家康と武田信玄が遠江の領有をめぐってせめぎ合っていた元亀の頃(1570-73)、原氏は武田方に属して徳川氏に対抗するようになっていた。武田の軍事力を背景に原氏は徳川によって落とされた各和城を乗っ取り、ここで徳川勢との対戦に臨んだ。この際に、高代山砦が原氏によって利用された可能性もあろうかと思われる。元亀四年(1573)、徳川勢が原氏の籠る各和城に攻め寄せた。当然のことながら相対する丘陵地に陣所を構えて兵を繰り出したはずであり、岡津砦(徳川氏が掛川城攻めに際して築いたとされる)が本陣となったものと思われる。高代山砦は岡津砦の北東500mほどの至近にあり、徳川勢の陣地となった可能性も高い。
 いずれにせよ、現段階では推測に推測を重ねる他なく、今後の調査研究が待たれる。
 城館史料には二つの独立丘の尾根上に曲輪を配置しているとあるが、現存するのは北側の丘のみで南側の丘は工場用地となって消滅してしまっている。現況は北端最高所に主曲輪、南に一段下がって二ノ曲輪が配されていることは見てとれるが茶園として開墾されている部分はかなり変形しているものと思われる。


▲ ニノ曲輪から南側を望見。もう一つの独立丘は工場用地となって消滅してしまった。

▲ 写真の高い所は主曲輪の南に設けられたニノ曲輪跡である。

▲ ニノ曲輪の削平部。この向こう(北側)には幅6mほどの堀切があって主曲輪(竹藪)があると城館資料にあるが、藪がひどくて踏み入ることはできなかった。

▲ 砦南端部は道路建設のために切断された状態となっている。中央部が土塁断面のように見えるが、これは茶畑の拡張によってこうした形になったものと思われる。
----備考---- 
訪問年月日 2012年3月3日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」
 ↑ 「掛川の古城址」他 

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